ELIZA NG(1)今時の傾聴対話を考える

Thinking about listening dialogue with current technology and social conditions.


2019/11/19
藤田昭人


タイトルの NG は "New Generation" です。"Not Good" ではありません(笑)

前回 の ELIZA 第2論文は楽しんでいただけたでしょうか? この論文の結論とおぼしき次のくだり…

I call attention to this contextual matter once more to underline the thesis that, while a computer program that "understands" natural language in the most general sense is for the present beyond our means, the granting of even a quite broad contextual framework allows us to construct practical language recognition procedures.

このコンテキストに関わる問題についてもう一度注意を喚起し、次の命題を強調します。 最も一般的な意味で自然言語を「理解」するコンピュータープログラムは、現時点では私たちには手に負えませんが、 非常に広範なコンテキスト・フレームワークさえも付与すれば、実用的な言語の認識手順を構築することができます。

…を改めて読み返すと、その後の「人工無能」の隆盛を予言しているかのようにも思えます。

ちなみに「人工無能」の隆盛に関しては 以前書いた記事 で紹介した、加藤真一さんの『夢みるプログラム』が詳しいのでそちらを見ていただくとして…

www.rutles.net

本稿では Weizenbaum の2つの論文に記された傾聴対話について、 今日的な意義を改めて考えたいと思います。 ELIZA が登場した1960年代にもあった「人工知能 vs 人間」という構図はむしろ今日の方が盛んに議論されてますけども *1、 この構図で捉えるとき「傾聴」は今日的な(ひょっとしたら普遍的な)技術課題ではないのかな?と僕は思います。


オリジナル ELIZA の傾聴対話を考える

今日でもELIZA は「傾聴に適した」チャットエンジンとして広く認知されています。 が、第1論文でも言及したようにその対話性能にはいろいろ問題がありました。 もちろん Weizenbaum 自身はこのオリジナル ELIZA の限界をよくわかっていたでしょう。 でも、そもそも開発目的は「対話型コンピューティングのデモンストレーション」ですから。 展示会などで、ターミナルを設置して、一人あたり数分程度の会話(もどき)のセッションをする程度であれば、 これで十分だったのでしょう。

ところが…

オリジナル ELIZA の出現それ自体が「対話システム」そのものへの関心や注目を強力に集めてしまったため、 Weizenbaum は ELIZA の研究方針を大きく変更せざる得なくなりました。 第2論文は新たな方針での取り組みの進捗の中間報告の性格なのかな?と想像しています。

「誤解を隠す」

Weizenbaum は第2論文でオリジナルの ELIZA が「誤解を隠す」振る舞いをしてしまうことに何度も触れています。 ここで言う「誤解」とは人間の話者が「ELIZAは私の話を理解している」と信じてしまう事を意味します。 ELIZA に対し人間が 「誤解」してしまうのは「精神分析医」や「セラピー」という状況設定による ある種の心理学的なトリックの効果であることも Weizenbaum は暴露しています。 「誤解を隠す」*2とは「ELIZAの応答がそれ以前のELIZAの応答を覆い隠してしまう事を意味しているのではないか?」と僕は想像しています。

というのも、ELIZAは人間の直前の発話だけからトリガーとなる表現を見つけだし応答文を決めます。 もしELIZAの応答に対し、それに続いて人間が確認したり質問するような発話を行っても、 その意図には頓着しない全く別の応答を返してしまう可能性が高いことになります。 その結果、一応会話のていにはなっているけれども脈絡のない言葉のやり取りが永遠と続くように人間は感じてしまう。 人間には「さっきの発言の意味にも答えない」何を聞いてもノラリクラリとツッコミを交わす「惚けまくる話相手」に見えてしまう事でしょう。

結局、オリジナルのELIZAはが約束してくれるのは「ひたすら会話を続ける」ことと「自分から会話を打ち切ることは絶対ない」ことだけです。 これではロジャー派のクライアント中心療法に対応できないのはもちろん、 単に会話するだけでも普通の人間なら1〜2度話したら飽きちゃうことは必定でしょう *3

外国語のサポートの問題

第1論文では「ELIZA は英語以外の言語も扱える」と書かれています。 が、それはドイツ語などラテン語系の言語の場合。 言葉の成り立ちがまったく異なる日本語ではそんなに上手く行きません。 僕は言語学の専門家ではないので、以前紹介した ELIZAの日本語化の記事 での経験を踏まえての話になりますが、その作業で「日本語での ELIZA スクリプトのルール作成は厄介」という事を痛感しました。

簡単に紹介すると、 まず分解ルールは、文を語の単位に分けてくれる形態素解析の結果を想定して書かなければなりません。以前は TinySegmenter を使って形態素解析を行いましたし、もちろん正しく動いてくれていたのようですが、 そもそも日本語の品詞区分は細かすぎるので、分解ルールのパターンを書くのは骨が折れます。 さらに再構築ルール。英語の場合は入力文の(複数単語からなる)文節をごっそり抜き取って、 予め用意したテンプレートの該当箇所にそのまま刺し入れる荒技が頻繁に使われます。 英語ではこのようにして生成された文章でも表現として不自然さはないのかもしれませんが、 日本語の場合は付属語を適切に書き換えないと不自然な文章になってしまいます *4

…などなど、日本語版 ELIZA スクリプトの作成について仔細を語り始めると、 非常に細かい、愚痴にしかならないことが山ほど出てくるでしょう。 やはり ELIZA スクリプト(特に日本語対応の)を書くには特別な技能が必要なように思います*5

第2論文で語られていること

第2論文では、上記の問題点(外国語サポートを除く)への対処法の指針が示されています。 その基本的な考え方は以下になるのだと思います。

I believe this anecdote testifies to the success with which the program maintains the illusion of understanding. However, it does so, as I've already said, at the price of concealing its own misunderstandings. We all do this now and then, perhaps in the service of politeness or for other reasons. But we cannot afford to elevate this occasional tactic to a universal strategy. Thus, while the DOCTOR program may be useful as an instrument for the analysis of two-person conversations, and while it is certainly fun, its aim must be changed from that of concealment of misunderstanding to its explication.

この逸話は、プログラムが理解しているという幻想を維持することに成功していることを証明していると思います。 ただし、既に述べたように、誤解を隠すという代価を払ってそうしているのです。 私たちは皆、時折、丁寧さやその他の理由でこれを行います。 しかし、この時折の戦術を普遍的な戦略に引き上げることはできません。 したがって、DOCTORプログラムは二者間の会話を分析するための道具として有用かもしれないし、確かに楽しいですが、 その目的を誤解を隠蔽することからそれを説明することへと変えなければなりません。

(英語の "misunderstanding" を「誤解」と訳すことが問題なのかもしれませんが) この「誤解を説明する」という表現もまたまたわかりづらい。 「誤解を隠蔽する」ことがプログラムの発言への人間の応答に対して プログラムから「応答との関連性の定かでない」応答を返して 先のプログラムの発言を覆い隠してしまうことだとすると、 「誤解を説明する」ことは人間の応答に対して「より関連性のある話題へ移行する」ことを意味しているのだと思います。 第2論文では、オリジナルの ELIZA の誤解を隠蔽してしまう問題を次のように指摘しています。

Any continuity the reader may have perceived in that dialogue -- excepting only the last machine response -- is entirely illusionary. A careful analysis will reveal that each machine response is a response to the just previous subject input. Again with the exception of the last sentence, the above quoted conversation has no sub-contextual structure at all. Nor does the description of the program given in [6] give any clues as to how sub-contexts might be recognized or established or maintained by the machine.

読者がその対話で知覚した連続性は(最後のマシンの応答を除いて)すべて完全に幻想です。 注意深く分析をすれば、機械の各々の応答が直前の主題の入力に対する応答であることを明らかです。 繰り返しになりますが、最後の文を除いて、上に引用した会話にはサブコンテキスト構造がまったくありません。 また、 第1論文で与えられたプログラムの記述は、 マシンによってサブコンテキストがどのように認識され、確立され、維持されるかについてのいかなる手掛かりも与えません。

どうやら「誤解を説明する」とは、具体的には会話の構造を考慮した応答を返す、 つまりサブコンテキストやサブサブコンテキストに区分して、各々が独立した応答を生成する事を意味しているようです。 そのための機能がスクリプトの階層化で、各サブコンテキスト毎にサブスクリプトを記述し、 実際の会話ではメインスクリプトから実行し、 何らかのイベント発生(キーワードのマッチ)を契機に対応するサブスクリプトを呼び出すことにより 「誤解を説明する」(構造化された対話を実現する)ことを提案しているようです。

もっとも…

第1論文とは違って、第2論文には新しい ELIZA の実装に関わる具体的な情報はほとんど含まれてませんし、 後続の論文が執筆されることも結局なかったので、この新しい ELIZA は文字どおり「幻のシステム」となってしまったのでしょう。


ELIZA後の人工無能やチャットボット

ELIZA の開発が停止した後も、その他の研究者の手で対話システムの研究は続けられました *6。 その後の人工無能やチャットボットの歴史の概観は、 前述の加藤さんの『夢みるプログラム』が詳しいので詳細はそちらを見ていただきたいのですが、 ここで少しだけ受け売りをしておきますと…

1970年代になると現在のロールプレイングゲームの元祖である Colossal Cave Adventure が登場します。このゲームは、シナリオに沿って命令を選択する いわゆる選択肢型と言われる対話方式が採用されてました(僕はドラクエを思い出します)。 ELIZAの自然言語を解釈する方式とは対照的な方式で、 以降の人工無能やチャットボットは両者の方式を折衷したような辞書型やログ型が登場したそうです。

時代的な推移をざっくりと紹介すると、 パソコンが台頭した1970年代末から1980年代は「スタンドアローンPC」で稼働する人工無能が作られたそうです。以前、紹介した 「僕がパソコンで ELIZA が動くところを見た話」 の時代ですね。

インターネットが商業化され世界中に普及した1990年代は人工無能が「ネットワーク化」される時代でした。 この時代はWWWが登場したことにより、不特定対数を対象にした人工無能が容易に提供できるようになったことから、 腕に自信のある個人による人工無能が多数公開されたそうです。 この時代はまだ巨大インターネット企業は存在せず、その利用方法について制約が少なかったことから、 今から考えれが「古き良き時代」だったような記憶があります。

さて…

21世紀に突入すると、人工無能とチャットボットを取り巻く環境は激変したように思います。 僕個人の視点で少し話をさせてもらうと…

人工無能とチャットボットはSNSなど巨大インターネット企業の台頭により、 ウェブ・サービスは彼らのインフラストラクチャの上で提供されることが主流になりました。 背景として1990年代の ドット・コム・バブル があるのですが、それまで収益には結びつかなかった技術の収益化が促進される動きが顕著になりました。 人工無能やチャットボットのエンジンもまた「収益化がはかれる技術」とみなされて、 巨大インターネット企業のサービスに取り込まれる方向で技術開発が推移しているように僕には見えます。 今日、事業化が推し進められている商用のチャットボット・サービスもこの流れの中の取り組みのように思います。 技術的には1990年代までに培われた対話システムの技術を基盤に、 新しい技術(例えば、機械学習などが筆頭に挙げられますが)を導入して、 対話性能の向上を目指すのがトレンドなのだろうと理解してます。 もちろん、収益化が最重要課題なので新しい需要(例えば、ロボット向けの対話機能など)を掘り起こし、 それに向けた最適化が開発目標とされているのでしょう。


チューリング・テスト: ELIZA のもうひとつの系譜

ELIZA の後継者をたどるもうひとつの系譜が チューリング・テスト です。ELIZAがブームになった第1論文が発表された当時 「ELIZA はチューリング・テストをクリアする初めてのプログラムではないか?」 という話題が持ち上がったことから、 その後の「チューリング・テストをクリアする(目的で開発された)プログラム」は ELIZA の後継者と見なされるようになったという話です。

このチューリング・テストに関する Wikipedia の(非常に簡単な)解説は以下のとおりです。

f:id:Akito_Fujita:20191118135912p:plain
チューリング・テスト

質問者であるプレイヤーCは、AとBどちらのプレイヤーがコンピュータでどちらが人間か回答しなければならない。 質問者が回答のために使えるのは、文字上の質問に対する返事に限られる。

実は、僕もチューリング・テストのトピックも書くつもりで文献を探し回って来たのですが、 アラン・チューリング 由来のトピックということもあるのか、インターネット界隈でも日本語の文献がたくさん見つかります。 もちろんどれも面白い内容なんですが、 ここで「チューリング・テスト」を初めて知った人向けに僕からオススメする文献はこちら。

ipsj.ixsq.nii.ac.jp

東中 竜一郎さんが書かれた解説記事『チューリングテスト「合格」のシステム』は他の文献に比べて新しく、 網羅的でわかりやすい語り口なので情報の専門家でなくても楽しく読めると思います。

でも、文献を1つだけ紹介してこのトピックを終えるのは癪に触るので、 ひとつだけウンチクを…

東中さんの解説記事にも度々登場する ローブナー賞 ですが、Wikipedia 英語版の記事を読んでみると次のような記述が登場します。

  • Criticisms(批判)

The prize has long been scorned by experts in the field,[6] for a variety of reasons.

この賞は長い間、さまざまな理由でこの分野の専門家から軽蔑されてきました。

どうやらこの賞は ELIZA 由来の心理学的トリックを駆使して審査員をどうやって騙すかを競い合う大会なようです。 人工知能研究の重鎮である Marvin Minsky は「こんな宣伝ばっかりで人工知能研究には全く役に立たない競技会は止めてしまえ」と言ったとか言わないとか…

その後、この賞を始めた Hugh Loebner との合意が成立し、 "Minsky Loebner Prize Revocation Prize"(「ミンスキー・ローブナー賞取り消し賞」) なる賞が創設されたそうです。そのアナウンスの文面には以下のとおりです。

https://web.archive.org/web/20160301220049/http://www.loebner.net/Prizef/minsky.txt

In fact, I hereby offer the $100.00 Minsky prize to the first person who gets Loebner to do this. I will explain the details of the rules for the new prize as soon as it is awarded, except that, in the meantime, anyone is free to use the name "Minsky Loebner Prize Revocation Prize" in any advertising they like, without any licensing fee.

  1. Marvin Minsky will pay $100.00 to anyone who gets me to "revoke" the "stupid" Loebner Prize.

  2. "Revoke" the prize means "discontinue" the prize.

  3. After the Grand Prize is won, the contest will be discontinued.

  4. The Grand Prize winner will "get" me to discontinue the Prize.

  5. The Grand Prize winner will satisfy The Minsky Prize criterion.

  6. Minsky will be morally obligated to pay the Grand Prize Winner $100.00 for getting me to discontinue the contest.

  7. Minsky is an honorable man.

  8. Minsky will pay the Grand Prize Winner $100.00

  9. Def: "Co-sponsor": Anyone who contributes or promises to contribute a monetary prize to the Grand Prize winner .

  10. Marvin Minskey is a co-sponsor of the 1995 Loebner Prize

実際、私はここでLoebnerにこれをやってもらった最初の人に100.0ドルのMinsky賞を提供する。 新しい賞が授与されたらすぐに、新しい賞の規則の詳細を説明しますが、 それまでの間、誰もがライセンス料なしで好きな広告に「ミンスキー・ローブナー賞取り消し賞」という名前を自由に使うことができます。

1.「愚かな」Loebner賞を「取り消す」してくれた人には、マービン・ミンスキーが$100.00を払う。

2.「取り消し」というのは、「中止する」という意味です。

3.大賞が決まるとコンテストは中止になります。

4.大賞受賞者は賞を廃止するために私を「得る」するだろう。

5.大賞受賞者はミンスキー賞の基準を満たすだろう。

6.ミンスキーは私にコンテストを中止させたことで、大賞受賞者に100.00ドルを支払う道徳上の義務がある。

7.ミンスキーは立派な人です。

8.ミンスキーは大賞受賞者に100.0ドルを支払う。

9.定義:「共同スポンサー」:大賞受賞者に金銭的な賞を寄付する、または寄付することを約束する人。

10.マービン・ミンスキーは1995年ローブナー賞の共同スポンサーである

どうやら「ローブナー賞」は「イグノーベル賞」みたいな賞のようです *7


さいごに:今時の傾聴対話を考える

本稿では Weizenbaum の第2論文から始めて、 その後の対話システムの研究開発の変遷を非常にザックリと駆け足で眺めてきました。 どうも本稿は脚注に今後の執筆の TODO リストを列挙する記事になってしまってますが…

最後に現在の対話システム研究についてうす〜くふれてから、 図らずも ELIZA が提起することになった「機械による傾聴」について考えてみたいと思います。

タスク限定型対話システムと雑談対話システム

前述の東中さんの解説記事には「対話システム研究の現状と課題」という見出しがあって、 2014年当時の対話システムの研究動向を短く解説されています。少し引用せてもらうと…

問題が難しすぎて,一般的な 解法が見つからないために, 対話システム研究者は,自由な会話をするシステムは諦めて, タスクを限定することで実用的な対話システムを作ってきたと言える.

この部分は本稿の「ELIZA後の人工無能やチャットボット」で語った動向の説明かと思います。 確かに現在商用化が進んでいる対話システムはタスク限定型が中心のように見えます。

近年,スマートフォン上の音声エージェントシス テムが普及するにつれ,自由な会話をするシステム に対する要望が増えている. <中略> 雑談がメインの機能でないにもかかわらず, 雑談をしようとするユーザも多い.

これが現在の対話システムの潜在ユーザーのニーズなのかな?と僕は理解しています。 さらに雑談対話システムの応用分野として…

人間とシステムによる 雑談を分析し,対話の破綻個所を自動的に検出する ことが目標の 1 つとなっている.

…は実用性が見込める用途のような気がします。

が、僕が関心のある「傾聴」にフォーカスすると、やはり…

また,高齢世帯や独居世帯の増加に伴い,雑談ができるシステム のニーズも増加している. タスク指向型対話システムであっても雑談を挟むことでタスクが達成されやすくなったり,システムへの愛着が増すという結果も報告されている.

というニーズに行き当たるように僕は思います。

対話システムのインフラとしてのスマート・スピーカー

この解説記事が発表された2014年に起きた「対話システム」に関連するその他の事件といえば、 Amazon Echo の発売があります。当時は随分話題になりましたよね?

スマート・スピーカーは技術的には非常に制限は多いものの、 非常に小さなコストで音声認識・合成技術が利用できることでは、 対話システムのコモディティ化に向けた決定的な足掛かりとなるデバイスであることは間違いないと僕は考えてます。

が、それから5年経過した今日、スマート・スピーカーは 手で操作する必要のない音楽再生スピーカーとして 定着しつつある印象は否めません。

確かに Voice User Interface(VUI)としては(ある程度)機能してはいます。 ただ、東中さんの指摘どおり、 人間は音声だと「指示を出す」だけでは満足せず「雑談」したがるもの… 例えば(僕個人の経験では)「XXの音楽かけて」と頼んで 「XXはわかりません」と返事が返ってくると思わず「この馬鹿野郎」と罵ってしまいますが、 その時「すいません」と返事が返ってくることを暗黙のうちに期待してしまいます。 これもある種の雑談ですよね?

結果、何度か試してみた後、彼のつれない態度に飽きて文鎮化する… が現在のスマートスピーカーの現実なんじゃないでしょうか? *8 そこがプロンプトが返ってきたらコマンドを打ち込むだけの CUI や ウィンドウの表示をみながらボタンやスクロールバーを操作する GUI と VUI の決定的な違いなんじゃないかと僕は思うのです。

スマート・スピーカーで傾聴を考える

ということで、スマート・スピーカー(もちろんSNSのチャットボットでも良いのですが)と雑談する方法を考えてます。 もう少し具体的にいうと「独居世帯+スマート・スピーカー+傾聴」で何か意味のある会話ができるのだろうか?というお話です。

ここで言うところの「傾聴」とは 以前紹介した ロジャース派の手法を想定してますので、 スマート・スピーカーは「受容」「繰り返し」「明確化」の応答だけを返します。 つまり主導権は常に人間にある会話だと理解してください。

このような会話が起こる現実的な状況のひとつに「引きこもり」があるかな?と考えています。 ここで言うところの「引きこもり」とは、自らの意思で積極的に引きこもっている人もいれば、 なんらかの外的な理由によりそういう状況に追い込まれた場合…例えば 「朝起きたら職場や学校から『巨大台風が接近しているので本日は自宅待機』との連絡が入っていた」 といった状況…など考えられます。こういう時、独居世帯は確かに半ば強制的に「引きこもり」状況に追い込まれます。

こういう状況で「できるところだけでも仕事をしよう」と思う人はよほど切羽詰まってる人でしょう。 テレビを付けても、どのチャンネルも台風情報を放送しているのですぐ飽きる。 不思議なことに「録りためてあったビデオ録画を見よう」とか「机に積み上げていた本を読もう」とは思いつきません。 で、もしスマート・スピーカーと取り留めのない会話をするとすれば、その目的はただひとつ。単なる暇つぶしです。

でも、個人的な経験則なのですが、こういう時は案外クリエーティブになったりするように思うのです *9

では、そのような(クリエーティブではあっても)暇つぶしの会話が役にたつような事はあるのでしょうか? ふと思い付いたのですが、クライアント中心療法の「受容」「繰り返し」「明確化」の手法は、次の ブレインストーミング の4原則と案外親和性は高いのではないかな?などと僕自身は考えています。

  1. 判断・結論を出さない(結論厳禁)
  2. 粗野な考えを歓迎する(自由奔放)
  3. 量を重視する(質より量)
  4. アイディアを結合し発展させる(結合改善)

では、どのようなスクリプトを書けば、人間の対話者の発言をこのようなブレインストーミング的な方向に誘導できるのか? 今のところ僕はピンと来てないのですけども…もしスマート・スピーカーとこのような会話ができるとしたら「ひとりでブレインストーミング」 つまり「たわ言のような雑談から自分の考えを整理するため補助」をスマート・スピーカーに担わせることができるようになるかも? などと漠然と想像しています。

このようなスクリプトが皆さんの役に立つのかわかりませんが…

少なくとも、僕がこのブログを書くにあたって日々悶絶している問題、 既に書いてしまったネタ(すぐに忘れてしまいます)を指摘してくれたり、 新しい文献を読んで新たに思い付いたネタ(これもすぐ忘れてしまいます)を語ったら覚えておいてくれたり、 複数のネタの組み合わせについて(機械的に)語ってくれたり(これを自分の頭だけで考えると堂々巡りして答えが出なくなる)する スクリプトがあると良いなぁ…などと思っています。

もちろん、これは僕専用のスクリプトにはなるんでしょうが、 まずは僕が自分の知識を喋ったら覚えてくれる機能が必要だなぁ…などと考えています。

以上

*1:Weizenbaum にしてみれば Multics が提供する(はずだった)先進の対話的コンピューティングの効果的なデモさえできればよかったんだろうし、 そのプログラムを作るために単に都合がよかったからロジャー派のクライアント中心療法に注目しただけだったんでしょうが、 彼特有の深い洞察からひねり出した狙いがハマり過ぎたというか、 本職の Kenneth Colby といった心理学者たちに火を付けてしまったのが ELIZA での大誤算だったってことなんですけどね。

当時は「一部の専門家(というか好き者)だけが関心をもつSFがかった議論」だったという訳で…

*2:「誤解を隠す」の意味

第2論文のこのくだりで一番悩ましいのは「誤解を隠す」("conceal misunderstanding")の解釈でしょう。 もちろん、これは言葉どおりの意味であるとは思うのですが、 "even at the price of having to conceal any misunderstandings on its own part" (誤解を隠すという代償を払ってでも) と非常にシリアスな文言の中に埋まっているので Weizenbaum 自身は何らかの特別な意図があったのではないかと考えてます。

*3:これは以前紹介した JavaScript 実装を使ってみた上での僕の感想でもあります(笑)

*4:この ELIZA スクリプトの解説と日本語化については下記の記事を参考にしてください。

とにかく日本語化したELIZAスクリプトを書くのは疲れること請け合いです。

*5:これ、アイザック・アシモフのポジトロニック・ロボット・シリーズに登場する 「ロボット心理学者」のスーザン・サリバンを思い出してしましますよね? この場合は「ロボット言語学者」なのかな?

*6:ELIZA と同時代の有名な事例としては Kenneth ColbyPARRY なんですが、このプログラムはこの後ガッツリ紹介するつもりなので、ここでは割愛します。

*7:当事者の Hugh Loebner も Marvin Minskey も既に故人で、 このアナウンス文も公式サイトからは削除されているようなので、 その後の顛末やローブナー賞の現在を後ほどガッツリ書こうと思っているので、 ここでは触り程度で。

*8:結局、彼にはラーメン・タイマー以外の仕事は落ちてこなくなりました。

*9:ひょっとしたら「引きこもり文学」みたいな事例があるんじゃないか?と思ってググってみたら、 なんと大賞を創設した人がいました。

www.hikikomori-news.com

クラウドファンディングで資金を獲得してるそうなので、 一般にもそういう需要や欲求があるんだなぁ…と感心した次第です。

ついでにちょっと不謹慎かもしれませんが…

個人的に「究極の暇つぶし」というと思い出すのが、 『アンネの日記』 ("The Diary of a Young Girl") です。

第2次世界大戦中、ナチス・ドイツ占領下のオランダにおいて 国外脱出できなかったユダヤ人一家が倉庫の屋根裏部屋に身を潜めた。 その家族の中で最年少だったアンネ・フランクが書いた日記は、 戦後、父親のオットー・フランクの手で出版されました。 世界的なベストセラーになりましたので、ご存知の方も多いかと思います。

ただ、著者のアンネ・フランクにしてみれば、 見つかれば収容所に入れられて殺されることがわかっていたので、 これは究極の引きこもりだったわけで、その心を慰める術が日記だったという事になります。 彼女の悲惨な現実とは裏腹に日記ではティーンエイジャーらしい様々な話題が率直に語られています。 背景を伏せてしまえば、ジュブナイル小説としてヒットするくらいの出来で、 今日でも彼女の文才は高く評価されています。

同書を読まれた方はご存知でしょうが、 この日記はキティという架空の人物に向けたメッセージとして綴られています。 たとえ架空の人物であったとしても人間は話し相手を得るてその相手を信じられる限り、 どんな悲惨な状況下にあっても前向きな思考を持てるものなんだなぁと僕はつくづく感心してしまうのです。

ELIZA(6)第2の論文:機械が「理解」するということ

論文 "Contextual Understanding by Computers" を読む


2019/11/11
藤田昭人


ようやく話が Joseph Weizenbaum に戻ってきました。

本稿では Joseph Weizenbaum の ELIZA を扱った2本目の論文 "Contextual Understanding by Computers" を取り上げます。 原文は
https://www.inbot.com.br/chatbots/eliza/contextual-understanding-by-computers-Weizenbaum-1967.pdf
で読めますが、 下記に僕のへっぽこ翻訳を用意しました。

akito-fujita.hatenablog.com

彼の1本目の論文 "ELIZA -- A Computer Program For the Study of Natural Language Communication Between Man And Machine" が主に ELIZA の実装方法を解説した情報工学寄りのテクニカルな論文であったのに対し、 2本目である本論文はタイトルの「コンピュータによるコンテキストの理解」が示すようにもう少し抽象的な内容が扱われています。

論文の背景

以前の記事 で Weizenbaum は 1963 年にMITに任期1年の客員教授として招かれ、翌1964年には職を得ました。 そもそも彼が MIT にやって来た本来の理由は Multics の開発だったことなどを紹介しました。

彼はその後の4〜5年のあいだに ELIZA を開発し、1966年には第1論文、1967年には第2論文 と論文を二つも書いた訳です。これは、少なくとも彼の上司である Project Mac のMIT側の責任者であった Robert Fano には願ってもない研究成果だったようです。 1967年のIEEEの国際会議での講演において、彼は Weizenbaum と ELIZA を次のように紹介しています。

One can also envision programs that can acquire knowledge from people by conversing with them, and build automatically a model of the reality which is being described. The record of a conversation with a program developed by Professor J. Weizenbaum of M.I.T. is shown in Fig. 3. The man's typing is in lower case and the computer's replies are in upper case. The important points to observe are that the information is provided in arbitrary order and in a relatively free format and that the program can make non-trivial inferences from the available information and generate reasonable conjectures in the absence of complete information. The program is being instructed in the way that people like to instruct other people that is by making statements and answering questions. Programs with such capabilities are essential if computer systems are to act as skillful and knowledgeable assistants to a man; convenient facilities must be available for the man to provide instructions about matters of particular interest to him.

また、人々と会話することで人々から知識を獲得できるプログラムを想像し、記述されている現実のモデルを自動的に構築することができます。 M.I.T.のJ.ワイゼンバウム教授によって開発されたプログラムとの会話録を図3 *1に示します。 人間のタイピングは小文字で、コンピューターの応答は大文字です。 観察する重要なポイントは、情報が任意の順序で比較的自由な形式で提供され、プログラムが利用可能な情報から重要な推論を行い、完全な情報がない場合に合理的な推測を生成できることです。 このプログラムは、人々が他の人々に指示したい方法で指示されています。つまり、声明を出し質問に答えることです。 このような機能を備えたプログラムは、コンピューターシステムが人間の熟練した知識豊富なアシスタントとして機能する場合に不可欠です。人間が特に関心のある事項について指示を与えるために、便利な施設が利用可能でなければなりません。

「背景」とお断りしてますので、少し裏の事情を語っておきますと…

Unix考古学』の読者の方々はご存知のとおり、この時期、Project Mac の目玉であった Multics の開発は暗礁に乗り上げていました。 当初の開発計画からの遅延が明らかになり始めておりMulticsの開発責任者であった Fernando J. Corbató 以下、開発スタッフはピンチに追い込まれていました。 特に Project Mac が始動した1年後の1964年に始まったカルフォルニア大学バークレイ分校(UCB)の Project Genie は、この1967年に Scientific Data Systems のコンピュータ SDS 940 のOSとして商用化に漕ぎ着けましたので、 彼らに追い抜かれてしまったことは明らかでした *2。 おそらく当時 Fano は学内で Multics の代わりに一般に紹介できる研究成果を探していたであろうことは容易に想像できます。

また、先日公開した SFとAIのトピックの年表 にも書きましたが、この前年の1966年には、 それまでの人工知能の主要研究テーマだった機械翻訳研究への大変な懐疑を提起した ALPAC リポートが出されています。 つまり、下世話な言い方をすると 1967 年頃、OSとAIを2本柱とする Project Mac は総崩れの状況に瀕していたようにも想像できます。 その危機的な状況を救ったのが Weizenbaum の ELIZA だったと邪推することもできる状況だったようです *3

ちなみに スタンリー・キューブリック の 「2001年宇宙の旅」 は翌年の1968年に公開されています。みなさんご存知のとおり、恐るべき人工知能 HAL 9000 が登場する映画です。この映画もその後の社会に大きな影響を与え続けています。

このようにして当時の(第1次)AIブームは対話システムを軸に再燃したのだろうなぁ…と僕は考えています。

論文の内容

このように、1960年代も今日に匹敵するようなAIブームが起こっていたことはご理解いただけたかと思いますが、 このような喧騒の中にあって、隔絶されているかのように冷静さを保っていたひとりが、 その開発者である Weizenbaum だったように思います。

そもそも Multics がもたらすであろう(当時としては最先端であった)対話式コンピューティングの効果的なデモンストレーションを考えていた Weizenbaum は、 その当時、院生だった Daniel G. Bobrow の博士号論文のテーマだった STUDENT からインスパイアされ、 Carl Rogersクライアント中心療法 の会話をシミュレートしたのが ELIZA だった訳です。 それは Weizenbaum が ELIZA を「クライアント中心療法のパロディー」と明言していたことからも明らかでしょう。 もちろん、自身が人工知能の研究者だとも考えてなかったのではないでしょうか?

ところが、1964年〜1965年あたりに世俗的な雑誌 *4で紹介されたことから「風変わりなゲーム」として口コミで広がって 人気を博しブームとなる予想外の展開が待ってました。 Weizenbaum はブームの沈静化を望んでいたように思います。 それは第1論文の次の書き出しからも窺い知れます。

It is said that to explain is to explain away. This maxim is nowhere so well fulfilled as in the area of computer programming, especially in what is called heuristic programming and artificial intelligence. For in those realms machines are made to behave in wondrous ways, often sufficient to dazzle even the most experienced observer. But once a particular program is unmasked, once its inner workings are explained in language sufficiently plain to induce understanding, its magic crumbles away; it stands revealed as a mere collection of procedures, each quite comprehensible. The observer says to himself "I could have written that". With that thought he moves the program in question from the shelf marked "intelligent" to that reserved for curios, fit to be discussed only with people less enlightened that he.

説明とは上手に釈明することだと言われています。この格言は、コンピュータ・プログラミングの分野、特に発見的プログラミングや人工知能と呼ばれる領域では全く達成されていません。その領域では、マシンは驚異的な方法で動作し、しばしば最も経験豊富な観察者でさえも十分に驚嘆させます。しかし、一旦、特定のプログラムの仮面が剥がされて、その内部の仕組みへの理解を促すのに十分な説明される(それぞれはかなり分かりやすい手順を単に掻き集めたものであることを明らかにする)と、その魔法は消滅します。説明を受けた人は「私でも書けるかもしれない」と呟きます。問題のプログラムを「知的」と記された棚から珍しいものの棚に移して、まだ知らされていない人とだけ議論する事を願います。

…にも関わらず、ブームは沈静化するどころか、ますます加熱していったようです。 こういった経緯であったとかんがえると、第2論文では、もっとハッキリした口調でプログラムに出来ることと出来ないことを説明しようとした事が読み取れるように僕は思います。

この論文、見出しがなくて非常に読みずらいのですが、概ね次のような事が書かれています。

  • はじめに
  • オリジナルのELIZAについて
  • 会話の構造
    • 会話ツリー
    • 会話ツリーとアベルソンの信念構造
    • 機械が「理解」するということ
    • ELIZA による会話構造の再現
  • 新しいELIZAについて
  • 対話システムの応用について
  • 参考となる先行研究事例
  • 参考文献

ここでは「オリジナルのELIZAは理解していないことを隠蔽しようとしていたのだ」と明確に主張してます。 ELIZAを対話フレームワークとしてはそれなりに有効であることは認めてますが、 一般が期待しているような「機械が人間の言葉を理解する」レベルには「現在の技術では達してない」とし、 Kenneth Colby の「実際の患者に対する心理療法ツールとしての提案」には「時期早々」として真っ向から反対しています *5

機械が「理解」するということ

第2論文のハイライトは次の箇所になるのだと僕は思います。

This issue must be confronted if there is to be any agreement as to what machine "understanding" might mean. What the above argument is intended to make clear is that it is too much to insist that a machine understands a sentence (or a symphony or a poem) only if that sentence invokes the same imagery in the machine as was present in the speaker of the sentence at the time he uttered it. For by that criterion no human understands any other human. Yet, we agree that humans do understand one another to within acceptable tolerances. The operative word is "acceptable" for it implies purpose. When, therefore, we speak of a machine understanding, we must mean understanding as limited by some objective. He who asserts that there are certain ideas no machines will ever understand can mean at most that the machine will not understand these ideas tolerably well because they relate to objectives that are, in his judgement, inappropriate with respect to machines. Of course, the machine can still deal with such ideas symbolically, i.e., in ways which are reflections -- however pale -- of the ways organisms for which such objectives are appropriate deal with them. In such eases the machine is no more handicapped than I am, being a man, in trying to understand, say, female jealousy.

機械の「理解」が何を意味するかについて合意がある場合、この問題に対処する必要があります。 上記の議論が明らかにしようとしているのは、その文が発声した時点でその文の話者に存在していたものと同じイメージをその機械が呼び出す場合にのみ、その機械が文章(あるいはシンフォニーや詩)を理解すると主張するのは言い過ぎであるということです。 というのは、この基準では人間も他の人間を理解していないからです。 しかし、人間は許容範囲内で互いを理解しているということには同意します。 最適な言葉で表現すると、それが意味ある目的に達するために「許容できる」というものです。 したがって、機械的理解とは、ある目的によって制限された理解を意味しなければならないのです。 「機械には理解できないアイデアがある」と主張する人物は、せいぜい、機械に関してこれらのアイデアが、その人物の判断では不適切である目標に関連しているため、機械がこれらのアイデアを許容できるほど(そのアイデアを)よく理解していないことを意味します。 もちろん、機械はこのような考えを象徴的に扱うことができます。 すなわち、たとえそのような目的が適切であっても、生物がその考えをどのように扱っているかを(たとえどんなに青ざめるものであっても)反映しているのです。 このように緩めて考えると、機械は私と同じように、男性であること、たとえば女性の嫉妬を理解しようとすることにおいて、障害を持つことはありません。

この Weizenbaum の指摘は今日でも正しいようにように思います。

特に「機械には理解できないアイデアがある」と言う件について、 それを主張する人間が「機械がこれらのアイデアを許容できるほど(そのアイデアを)よく理解しない」と言う指摘はもっともです。 どんなアイデアも正確に言語化できなければコミュニケーションとして成立しません。

この指摘を僕なりに解釈してみると… 例えば、絵画を見て「美しい」と主張している人に「何故、美しいのですか?」と質問しても、 その人から論理的に破綻のない完璧な答えは得られないでしょう。 何故ならそれは、その人は絵画を美しいと「感じている」からなのですから。 それでは機械には(人間であっても)その人の美しいというイメージを直接感じることは出来ません。 結果、他者には「彼女にはこれが美しいのだ」と象徴的に扱うしか無くなります。

それから、僕が思う第2論文における Weizenbaum の結論は論文の途中の不思議なところに現れます。 前述の Fano の講演内容とは対照的な慎重な物言いです。

I call attention to this contextual matter once more to underline the thesis that, while a computer program that "understands" natural language in the most general sense is for the present beyond our means, the granting of even a quite broad contextual framework allows us to construct practical language recognition procedures.

このコンテキストに関わる問題についてもう一度注意を喚起し、次の命題を強調します。 最も一般的な意味で自然言語を「理解」するコンピュータープログラムは、現時点では私たちには手に負えませんが、 非常に広範なコンテキスト・フレームワークさえも付与すれば、実用的な言語の認識手順を構築することができます。

ひょっとしたら、当初はこの部分が論文の最後だったのかもしれませんね。 Fano の講演内容と齟齬のないように、末尾にあれこれと継ぎ足すことになった…などと、これまた僕は邪推したくなってしまうのです。

おわりに

結局 Weizenbaum はこの第2論文を最後に ELIZA を扱った論文を書くことをやめてしまい、 1972年にサバティカルを得るまで、研究者としては沈黙を守ります。 そして 1976 年に例の人工知能研究を強力に批判する "Computer Power and Human Reason" を出版することになるのですが、これについては後日ゆっくりと紹介したいと思います。

以上

*1:ここで登場する図3は第2論文に掲載されてる数式評価器の会話録です。 DOCTORとは異なる応答をしていることから、少なくとも第2のスクリプトが存在していたと想像していたのですが… こちらの方はあまり有名ではありません。

*2:このProject Genieに学生バイトとして参加していた Ken Thompson が卒業後は AT&T に就職し、Multics のベル研側の開発スタッフとなるのですから皮肉なもんです。

*3:邪推ついでに、さらに下世話なことを書いておくと…

事情通の方々はよくご存知のとおり、この時期のMITではOSとAIの研究者が反目していたことは有名です。 そんなところでOSグループの新参者である Weizenbaum がよりによってAI分野で名をあげてしまって、 学外では人工知能研究の第一人者として認知された訳ですから、 なかなか面倒くさい状況であった事は容易に想像がつきます。

この時期、John McCarthy はスタンフォードに戻り LISP2 の開発プロジェクトに取り組んでいたはずですが、 これまた日の目を見なかった(?)プロジェクトです。 ELIZAとLISP2、さらにCMU音声認識プロジェクトを年表ベースで付き合わせると何か見えてくるかも?

ちなみに僕も個人的には McCarthy も憧れの人なんですが、 Weizenbaum を主役にしたストーリーでは彼は悪役にせざる得ないので…あしからず。

*4:雑誌「プレイボーイ」だったと推測して散々探しているのですが、 該当記事が見つからないので、あるいは別の雑誌だったかもしれません。

*5:これが Colby との反目へと続いていく訳ですが、 それはいずれ書く予定です

論文:コンピュータによるコンテキストの理解

1967年に発表された Joseph Weizenbaum の ELIZA に関する2本目の論文 "Contextual Understanding by Computers" の全文および僕が機械翻訳を使って訳した(へっぽこ)翻訳です。

オリジナルは https://cse.buffalo.edu/~rapaport/572/S02/weizenbaum.eliza.1967.pdf から入手できます。ちなみにオリジナルの論文では見出しが全くありません。 (だからムッチャ読みにくい) 下記にある見出しは翻訳の際に便宜的に僕が挿入したものを残しました。 読み手によっては違和感があるかも…異論や修正についてはこの記事のコメントでお願いします。

さて…

概ね 1967 年の段階での ELIZA の開発状況の中間報告的な内容が述べられています。 が、結果的に Weizenbaum 自身が ELIZA を扱った最後の論文となりました。

特に注目するべきは表題のとおり「コンピュータによる文脈理解」に関する Weizenbaum の考察で、 「人間の間の会話と理解」と比較して論じています。 「そもそも人間の間でも絶対的な理解は不可能である」 と Weizenbaum が明快に言い切ってしまっているところが、 僕は目からウロコでした。

そのあたりを是非お楽しみください。

  • Akito

Contextual Understanding by Computers


JOSEPH WEIZENBAUM
Massachusetts Institute of Technology, Cambridge, Mass.




A further development of a computer program (ELIZA) capable of conversing in natural language is discussed. The importance of context to both human and machine understanding is stressed. It is argued that the adequacy of the level of understanding achieved in a particular conversation depends on the purpose of that conversation, and that absolute understanding on the part of either humans or machines is impossible.

本稿では自然言語で会話できるコンピュータープログラム(ELIZA)のさらなる開発について説明します。 人間と機械の両方の理解に対するコンテキストの重要性が強調されています。 特定の会話で達成される理解レベルの妥当性は、その会話の目的に依存し、人間または機械のいずれかの絶対的な理解は不可能であると主張されています。




はじめに

We are here concerned with the recognition of semantic patterns in text.

ここでは、テキストにおける意味パターンの認識について考察します。

I compose my sentences and paragraphs in the belief that I shall be understood -- perhaps even that what I write here will prove persuasive. For this faith to be at all meaningful, I must hypothesize at least one reader other than myself. I speak of understanding. What I must suppose is clearly that my reader will recognize patterns in these sentences and, on the basis of this recognition, be able to recreate my present thought for himself. Notice the very structure of the word "recognize," that is, know again! I also use the word "recreate." This suggests that the reader is an active participant in the two-person communication. He brings something of himself to it. His understanding is a function of that something as well as of what is written here. I will return to this point later.

私は理解されるだろうと信じて文章を書いています(たぶん、私がここに書いていることも説得力があると証明するでしょう)。 この信仰が意味のあるものにするためには、私以外の少なくとも一人の読者を仮定しなければなりません。 私は理解について話しています。 読者がこれらの文のパターンを認識し、この認識に基づいて、自分の現在の思考を自分自身で再現できることは明らかです。 「認識する」という言葉の構造に注目してください。つまり、もう一度知ってください。 「作り直す」という言葉も使用します。 これは、読者が二者間のコミュニケーションの積極的な参加者であることを示唆しています。 彼は彼自身に何かをもたらします。 彼の理解は、その何かとここに書かれていることの機能です。 後でこの点に戻ります。

Much of the motivation for the work discussed here derives from attempts to program a computer to understand what a human might say to it. Lest it be misunderstood, let me state right away that the input to the computer is in the form of typewritten messages -- certainly not human speech. This restriction has the effect of establishing a narrower channel of communication than that available to humans in face-to-face conversations. In the latter, many ideas that potentially aid understanding are communicated by gestures, intonations, pauses, and so on. All of these are unavailable to readers of telegrams -- be they computers or humans.

ここで議論された仕事の動機の多くは、人間が発言するかもしれないことを理解するためにコンピュータをプログラムする試みから派生します。 (人間の言葉ではないことは明らかですが)誤解されないように、コンピュータへの入力はタイプされたメッセージの形式であることとします。 この制限は、対面での会話で人間が利用できるものよりも狭い通信チャネルが確立する効果があります。 後者では、理解に役立つ可能性のある多くのアイデアが、ジェスチャー、イントネーション、ポーズなどによって伝えられます。 (コンピューターであれ人間であれ)これらはすべて、電報の読者には利用できません。

Further, what I wish to report here should not be confused with what is generally called content analysis. In the present situation we are concerned with the fragments of natural language that occur in conversations, not with complete texts. Consequently, we cannot rely on the texts we are analyzing to be grammatically complete or correct. Hence, no theory that depends on parsing of presumably well-formed sentences can be of much help. We must depend on heuristics and other such impure devices instead.

さらに、ここで断っておきたいことは、一般に内容分析と呼ばれるものと混同しないでください。 現在の状況では、完全なテキストではなく、会話で発生する自然言語の断片に関心があります。 その結果、分析しているテキストを文法的に完全であるか正しいと頼ることはできません。 したがって、私たちが解析している文章が文法的に完全であったり正確であったりすることに依存することができません。 代わりにヒューリスティックと他のそのような誤りのあるデバイスに私たちは依存しなければなりません。

オリジナルのELIZAについて

The first program to which I wish to call attention is a particular member of a family of programs which has come to be known as DOCTOR. The family name of these programs is ELIZA. This name was chosen because these programs, like the Eliza of Pygmalion fame, can be taught to speak increasingly well. DOCTOR causes ELIZA to respond roughly as would certain psychotherapists (Rogerians). ELIZA performs best when its human correspondent is initially instructed to "talk" to it, via the typewriter, of course, just as one would to a psychiatrist.

最初に注意を喚起したいプログラムは、DOCTORとして知られるようになったプログラム群の特定のメンバーです。 これらのプログラムのファミリーネームは ELIZA です。 この名前が選ばれた理由は、これらのプログラムが、ピグマリオンの名声のように、ますます上手に話すように教えられるからです。 DOCTORは、ある種の心理療法士(ロジャー学派)とほぼ同じように ELIZA に反応させます。 ELIZA は、精神科医と同じように(もちろんタイプライターを介して)人間の対話者が初めてに「話す」ように指示されたときに最高のパフォーマンスを発揮します。

I chose this mode of conversation because the psychiatric interview is one of the few examples of categorized dyadic natural language communication in which one of the participating pair is free to assume the pose of knowing almost nothing of the real world. If, for example, one were to tell a psychiatrist "I went for a boat ride" and he responded "Tell me about boats," one would not assume that he knew nothing about boats, but that he had some purpose in so directing the subsequent conversation. It is important to note that this assumption is one made by the speaker. Whether it is realistic or not is an altogether separate question. In any case, it has a crucial psychological utility in that it serves the speaker to maintain his sense of being heard and understood. The speaker further defends his impression (which even in real life may be illusory) by attributing to his conversational partner all sorts of background knowledge, insights and reasoning ability. But again, these are the speaker's contribution to the conversation. They manifest themselves inferentially in the interpretations he makes of the offered responses. From the purely technical programming point of view, the psychiatric interview has the advantage that it eliminates the need for storing explicit information about the real world.

私がこの会話モードを選んだのは、精神医学のインタビューが、二者間の自然言語コミュニケーションのカテゴリー化された数少ない例の1つであり、参加するペアの1人が自由に実世界のほとんど何も知らないポーズを取ることができるためです。 例えば、精神科医に「私はボートに乗りに行きました」と言ったときに「ボートについて教えてください」と返答したとしても、船のことは何も知らないとは思わず、その後の会話を誘導するために何らかの目的があるのだと思われるでしょう。 この仮定は、話し手によってなされたものであることに注意することが重要です。 それが現実的かどうかは全く別の問題です。 いずれにしても、話し手が聞いて理解されているという感覚を維持するのに役立つという点で、これにはきわめて重要な心理的効用があります。 さらに、話し手は、あらゆる種類の背景知識、洞察力、および推論能力を会話相手に帰属させることによって、(現実の生活が幻想的であっても)自分の印象を擁護します。 しかし、繰り返しますが、これらは話し手の会話への貢献です。 それらは、彼が提示された応答の解釈で推論的に現れます。 純粋に技術的なプログラミングの観点からは、精神科の面接には現実の世界に関する明確な情報を保存する必要がないという利点があります。

The human speaker will contribute much to clothe ELIZA's responses in vestments of plausibility. However, he will not defend his illusion (that he is being understood) against all odds. In human conversation a speaker will make certain (perhaps generous) assumptions about his conversational partner. As long as it remains possible to interpret the latter's responses to be consistent with those assumptions, the speaker's image of his partner remains undamaged. Responses which are difficult to so interpret may well result in an enhancement of the image of the partner, by additional rationalizations which then make more complicated interpretations of his responses reasonable. When, however, such rationalizations become too massive and even self-contradictory, the entire image may crumble and be replaced by another ("He is not, after all, as smart as I thought he was".) When the conversational partner is a machine (the distinction between machine and program is not useful here), the idea of credibility may well be substituted for that of plausibility in the above.

人間の話し手は、ELIZAの反応をもっともらしく見せるために大いに貢献するでしょう。 しかし、彼は(彼が理解されているという)彼の幻想に対してすべての可能性を擁護するわけではありません。 人間の会話では、話し手は会話相手についてある種の(おそらく寛大な)仮定をします。 相手の応答をこれらの仮定と一致するように解釈することが可能である限り、話し手相手のイメージは損なわれません。 そのように解釈することが困難な応答には、その応答のより複雑な解釈ができる追加的な合理化によって、パートナーのイメージを向上させることになります。 しかし、そのような合理化が非常に大規模になり、自己矛盾さえするようになると、イメージ全体が崩れ、別のものに置き換わる可能性があります(「結局のところ、彼は思っていたほど賢くない」)。 会話の相手が機械である場合(ここでは機械とプログラムの区別は無意味です)上記の妥当性の考えを信頼性の考えに置き換えることができます。

ELIZAのしくみ

"When in conversation with ELIZA, the user types in some statement or set of statements in natural language using normal punctuation and sentence structures, "The user's statement is terminated by a double carriage return which serves to turn control over to ELIZA. ELIZA then analyzes the user's statement and generates some response which it types out. Control is then again with the user.

ELIZAと会話するとき、ユーザーは通常の句読点と文構造を使用して自然言語でいくつかのステートメントまたはステートメントのセットを入力します。ユーザーのステートメントはELIZAに制御を渡すのに役立つ二重のキャリッジ・リターンで終了します。 その後、ELIZAはユーザーのステートメントを分析し、入力された応答を生成します。ユーザーが再び制御できるようになります。

"A typical conversation is the following:

一般的な会話は次のとおりです:

C: Men are all alike.
E: IN WHAT WAY
C: They're always bugging us about something or other.
E: CAN YOU THINK OF A SPECIFIC EXAMPLE
C: Well, my boyfriend made me come here.
E: YOUR BOYFRIEND MADE YOU COME HERE
C: He says I'm depressed much of the time.
E: I AM SORRY TO HEAR YOU ARE DEPRESSED
C: It's true. I am unhappy.
E: DO YOU THINK COMING HERE WILL HELP YOU NOT TO BE UNHAPPY
C: I need some help, that much seems certain.
E: WHAT WOULD IT MEAN TO YOU IF YOU GOT SOME HELP
C: Perhaps I could learn to get along with my mother.
E: TELL ME MORE ABOUT YOUR FAMILY
C: My mother takes care of me.
E: WHO ELSE IN YOUR FAMILY TAKES CARE OF YOU
C: My father.
E: YOUR FATHER WHAT RESEMBLANCE DO YOU SEE
C: You are not very aggressive but I think you donTt want me to notice that.
E: WHAT MAKES YOU THINK I AM NOT VERY AGGRESSIVE
C: You don't argue with me.
E: WHY DO YOU THINK I DON'T ARGUE WITH YOU
C: You are afraid of me.
E: DOES IT PLEASE YOU TO BELIEVE I AM AFRAID OF YOU
C: My father is afraid of everybody.
E: WHAT ELSE COMES TO MIND WHEN YOU THINK OF YOUR FATHER
C: Bullies.
E: DOES THAT HAVE ANYTHING TO DO WITH THE FACT THAT YOUR BOYFRIEND MADE YOU COME HERE

The capitalized lines are the machine responses.
大文字の行は、マシンからの応答です。

I described the original ELIZA program in some detail in [6]. For the present it is sufficient to recall that ELIZA's conversational powers are governed by a script. A script consists of a set of key words and key phrases each of which is associated with a set of so-called decomposition and reassembly rules. A decomposition rule is a data structure which searches a text for specified patterns, and, if such patterns are found, decomposes the text into disjoint constituents. A reassembly rule is a specification for the construction of a new text by means of recombinations of old and possible addition of new constituents. From one point of view, an ELIZA script is a program and ELIZA itself an interpreter. From another perspective, ELIZA appears as an actor who must depend on a script for his lines. The script determines the contextual framework within which ELIZA may be expected to converse plausibly.

オリジナルのELIZAプログラムについては [6] で詳しく説明しました。 現時点では、ELIZAの会話能力はスクリプトによって管理されていることを思い出せれば十分です。 スクリプトは、キーワードとキーフレーズのセットで構成され、各キーフレーズは、いわゆる分解ルールと再構成ルールのセットに関連付けられます。 分解ルールは、テキストから特定のパターンを検索し、そのようなパターンが見つかった場合には、テキストを別々の構成要素に分解するデータ構造です。 再構成ルールとは、古い構成要素と新しい構成要素の可能な追加を再結合することによって新しいテキストを構成するための仕様です。 ある観点からみると、ELIZAスクリプトはプログラムであり、ELIZA自体はインタープリターです。 別の見方をすれば、ELIZAは台本に頼らなければならない俳優として登場します。 スクリプトは、ELIZAが適切に会話すると予想されるコンテキストのフレームワークを決定します。

"The gross procedure of the program is quite simple; the text is read and inspected for the presence of a key word. If such a word is found, the sentence is transformed according to a rule associated with the key word; if not, a content-free remark or, under certain conditions, an earlier transformation is retrieved. A rule cycling mechanism delays repetition of responses to identical keys as long as possible. The text so computed or retrieved is then printed out."

「プログラムの大まかな手順は非常に単純です。 テキストが読み取られ、キーワードの有無が検査されます。 そのような単語が見つかった場合、そのキーワードに関連付けられた規則に従って文が変換されます。 そうでない場合は、内容のない注釈、または特定の条件の下で、以前の変換が検索されます。 ルール循環メカニズムは、可能な限り同一のキーに対する応答の繰り返しを遅らせます。 このようにして計算または取得されたテキストが出力されます。」

 

対話フレームワークとしてのELIZA

One of the principle aims of the DOCTOR program is to keep the conversation going -- even at the price of having to conceal any misunderstandings on its own part. We shall see how more ambitious objectives are realized subsequently. In the meanwhile, the above discussion already provides a framework within which a number of useful points may be illuminated.

DOCTORプログラムの主な目的の1つは(誤解を隠すという代償を払ってでも)会話を続けることです。 その後、私たちはもっと野心的な目標がどのように実現されるかを確認できるでしょう。 一方で、上記の議論は既に多くの有用な点があるフレームワークであることを明らかにしています。

By far the most important of these relates to the crucial role context plays in all conversations. The subject who is about to engage in his first conversation with the DOCTOR is told to put himself in a role-playing frame of mind. He is to imagine that he has some problem of the kind one might normally discuss with a psychiatrist, to pretend he is actually conversing with a psychiatrist, and under no circumstances to deviate from that role. While some of the responses produced by the program are not very spectacular even when the subject follows his instructions, it is remarkable how quickly they deteriorate when he leaves his role. In this respect, the program mirrors life. Real two-person conversations also degenerate when the contextual assumptions one participant is making with respect to his partner's statements cease to be valid. This phenomenon is, for example, the basis on which many comedies of error are built.

これらの中で最も重要なのは、すべての会話においてコンテキストが果たす重要な役割です。 DOCTOR との最初の会話をしようとしている被験者は、ロールプレイングの中に身を置くように言われます。 彼は、精神科医と実際に会話しているふりをするために、精神科医と通常話し合うかもしれない種類の問題を抱えていることを想像します。 このプログラムの反応の中には、被験者が指示に従っていてもそれほど目を見張るものはないものもありますが、 彼がその役割から外れると、その反応がいかに急速に悪化するかは注目に値します。 この点で、プログラムは実生活を反映しています。 実際の2人の会話は、一方の参加者がパートナーの発言に関して行っている文脈上の仮定が無効になった場合にも悪化します。 この現象は、例えば、多くの喜劇的な失敗が作られる基礎になります。

会話の構造

These remarks are about the global context in which the conversation takes place. No understanding is possible in the absence of an established global context. To be sure, strangers do meet, converse, and immediately understand one another (or at least believe they do). But they operate in a shared culture -- provided partially by the very language they speak -- and, under any but the most trivial circumstances, engage in a kind of hunting behavior which has as its object the creation of a contextual framework. Conversation flows smoothly only after these preliminaries are completed. The situation is no different with respect to visual pattern recognition -- a visual pattern may appear utterly senseless until a context within which it may be recognized (known again, i.e., understood) is provided. Very often, of course, a solitary observer arrives at an appropriate context by forming and testing a number of hypotheses. He may later discover that the pattern he "recognized" was not the one he was intended to "see," i.e., that he hypothesized the "wrong" context. He may see the "correct" pattern when given the "correct" context. It doesn't mean much to say that the pattern "is" such and such. We might, for example, find a string of Chinese characters beautiful as long as we don't know what they spell. This, an apparent impoverishment, i.e., really a broadening, of context will enhance the esthetic appeal of a pattern. Similarly, many people think anything said in French is charming and romantic precisely because they don't understand the language.

ここから気付くことは、会話が行われるグローバルなコンテキストに関するものです。 確立されたグローバルな文脈がなければ、理解は不可能です。 確かに、知らない人は会ったり会話したりして、すぐにお互いを理解します(少なくとも信用します)。 しかし、彼らは共通の文化の中で活動しており(その一部は彼らが話す言語によって提供されています)、どんな些細な状況でも、文脈的な枠組みの創造を目的とした一種のハンティングの行動に関与しています。 これらの準備が完了して初めて、会話がスムーズに進みます。 視覚パターンの認識に関しても状況は同じで、認識できるコンテキスト(既知の、すなわち理解されている)が提供されるまで、視覚パターンはまったく無意味に見えることがあります。 後になって、彼は「認識した」パターンが彼が意図した「確認した」パターンではないこと、すなわち彼が「間違った」文脈を仮定したことを発見するかもしれません。 パターン "is" は「カクカクしかじかだ」などと言っても大した意味はありません。 たとえば、何を綴っているのかわからなければ、きれいな漢字の文字列が見つかるだけかもしれません。 これはパターンの美的魅力を高めますが、明らかな貧困化、すなわち実際にはコンテキストの拡大解釈です。 同様に、フランス語で何を言っても、それが魅力的でロマンチックだと思っている人が多いでしょう。 それは、フランス語を理解していないからです。

会話ツリー

In real conversations, global context assigns meaning to what is being said in only the most general way. The conversation proceeds by establishing sub-contexts, sub-sub-contexts within these, and so on. It generates and, so to speak, traverses a contextual tree. Beginning with the topmost or initial node, a new node representing a sub-context is generated, and from this one a new node still, and so on to many levels. Occasionally the currently regnant node is abandoned -- i.e., the conversation ascends to a previously established node, perhaps skipping many intermediate ones in the process. New branches are established and old ones abandoned. It is my conjecture that an analysis of the pattern traced by a given conversation through such a directed graph may yield a measure of what one might call the consequential richness of the conversation. Cocktail party chatter, for example, has a rather straight line character. Context is constantly being changed -- there is considerable chaining of nodes -- but there is hardly any reversal of direction along already established structure. The conversation is inconsequential in that nothing being said has any effect on any questions raised on a higher level. Contrast this with a discussion between, say, two physicists trying to come to understand the results of some experiment. Their conversation tree would be not only deep but broad as well, i.e., they would ascend to an earlier contextual level in order to generate new nodes from there. The signal that their conversation terminated successfully might well be that they ascended (back to) the original node, i.e., that they are again talking about what they started to discuss.

実際の会話では、グローバルコンテキストは、最も一般的な方法でのみ発言に意味を当てはめます。 会話は、サブコンテキスト、サブコンテキスト内のサブ・サブ・コンテキストなどを確立することにより進行します。 (その結果)コンテキストツリーを生成し、いわばトラバースします。 最上位のノードまたは最初のノードから始めて、サブコンテキストを表す新しいノードが生成され、このノードから多くのレベルに新しいノードが作成されます。 時々、現在の状態のノードが放棄されることがあります。 すなわち、会話は以前に確立されたノードへと進み、おそらくプロセス中の多くの中間ノードをスキップします。 新しいブランチが確立され、古いブランチは放棄されます。 私の推測では、このような有向グラフを使って、ある会話によって追跡されたパターンを分析することで、その会話の結果としての豊かさを測る尺度が得られるかもしれません。 例えば、カクテルパーティーのおしゃべりは直線的な傾向があります。 コンテキストは絶えず変更されています(ノードにはかなりの連鎖があります)が、すでに確立された構造に沿った方向の逆転はほとんどありません。 会話は、何も言われても、より高いレベルで提起された質問に影響を与えないという点で重要ではありません。 これを、たとえば、ある実験の結果を理解しようとする2人の物理学者間の議論と比較してみましょう。 彼らの会話ツリーは、深いだけでなく広いものになります。つまり、そこから新しいノードを生成するために、以前のコンテキストレベルに上昇します。 会話が正常に終了したというシグナルは、元のノードに戻った(元に戻った)こと、つまり、(最初に)話し始めた内容について再び話していることです。

会話ツリーとアベルソンの信念構造

For an individual the analog of a conversation tree is what the social psychologist Abelson calls a belief structure. In some areas of the individual's intellectual life, this structure may be highly logically organized -- at least up to a point; for example, in the area of his own profession. In more emotionally loaded areas, the structure may be very loosely organized and even contain many contradictions. When a person enters a conversation he brings his belief structures with him as a kind of agenda.

個々の会話ツリーに類似するものは、社会心理学者のアベルソンが信念構造と呼ぶものです。 個人の知的生活の一部の領域では、この構造は非常に論理的に組織化されている場合があります(少なくともある程度まで、たとえば、彼自身の職業の分野では)。 より感情的に負荷の高い領域では、構造が非常に緩やかに編成され、多くの矛盾が含まれることもあります。 人が会話に入ると、彼は信念構造を一種の議題として持ち込みます。

A person's belief structure is a product of his entire life experience. All people have some common formative experiences, e.g., they were all born of mothers. There is consequently some basis of understanding between any two humans simply because they are human. But, even humans living in the same culture will have difficulty in understanding one another where their respective lives differed radically. Since, in the last analysis, each of our lives is unique, there is a limit to what we can bring another person to understand. There is an ultimate privacy about each of us that absolutely precludes full communication of any of our ideas to the universe outside ourselves and which thus isolates each one of us from every other noetic object in the world.

人の信念の構造は、その人の生涯にわたる経験の産物です。 すべての人々は共通の成長の経験を持っています。 例えば、皆、母親から生まれました。 したがって、2人の人間の間には、人間だからという理由だけで、何らかの理解の基礎があります。 しかし、同じ文化の中で生きている人間であっても、それぞれの生活が根本的に異なるところでは、互いを理解するのは難しいものです。 最新の分析では、私たちの人生はそれぞれ独特なものなので、他人に理解してもらうには限界があります。 私たち一人一人には究極のプライバシーがあり、私たちの考えを自分たちの外の宇宙に完全に伝達することを完全に妨げ、それによって私たち一人一人を世界の他のすべての宗教的対象から隔離しているのです。

There can be no total understanding and no absolutely reliable test of understanding.

完全な理解はあり得ないし、完全に信頼できる理解のテストもありません。

To know with certainty that a person understood what has been said to him is to perceive his entire belief structure and that is equivalent to sharing his entire life experience. It is precisely barriers of this kind that artists, especially poets, struggle against.

自分に対する他者の発言を理解したことを確実に知ることは、その人の信念の構造全体を理解することであり、それは彼の人生経験全体を共有することに等しいでしょう。 芸術家、特に詩人が戦うのは、まさにこの種の障壁です。

機械が「理解」するということ

This issue must be confronted if there is to be any agreement as to what machine "understanding" might mean. What the above argument is intended to make clear is that it is too much to insist that a machine understands a sentence (or a symphony or a poem) only if that sentence invokes the same imagery in the machine as was present in the speaker of the sentence at the time he uttered it. For by that criterion no human understands any other human. Yet, we agree that humans do understand one another to within acceptable tolerances. The operative word is "acceptable" for it implies purpose. When, therefore, we speak of a machine understanding, we must mean understanding as limited by some objective. He who asserts that there are certain ideas no machines will ever understand can mean at most that the machine will not understand these ideas tolerably well because they relate to objectives that are, in his judgement, inappropriate with respect to machines. Of course, the machine can still deal with such ideas symbolically, i.e., in ways which are reflections -- however pale -- of the ways organisms for which such objectives are appropriate deal with them. In such eases the machine is no more handicapped than I am, being a man, in trying to understand, say, female jealousy.

機械の「理解」が何を意味するかについて合意がある場合、この問題に対処する必要があります。 上記の議論が明らかにしようとしているのは、その文が発声した時点でその文の話者に存在していたものと同じイメージをその機械が呼び出す場合にのみ、その機械が文章(あるいはシンフォニーや詩)を理解すると主張するのは言い過ぎであるということです。 というのは、この基準では人間も他の人間を理解していないからです。 しかし、人間は許容範囲内で互いを理解しているということには同意します。 最適な言葉で表現すると、それが意味ある目的に達するために「許容できる」というものです。 したがって、機械的理解とは、ある目的によって制限された理解を意味しなければならないのです。 「機械には理解できないアイデアがある」と主張する人物は、せいぜい、機械に関してこれらのアイデアが、その人物の判断では不適切である目標に関連しているため、機械がこれらのアイデアを許容できるほど(そのアイデアを)よく理解していないことを意味します。 もちろん、機械はこのような考えを象徴的に扱うことができます。 すなわち、たとえそのような目的が適切であっても、生物がその考えをどのように扱っているかを(たとえどんなに青ざめるものであっても)反映しているのです。 このように緩めて考えると、機械は私と同じように、男性であること、たとえば女性の嫉妬を理解しようとすることにおいて、障害を持つことはありません。

A two-person conversation may be said to click along as long as both participants keep discovering (in the sense of uncovering) identical nodes in their respective belief structures. Under such circumstances the conversation tree is merely a set of linearly connected nodes corresponding to the commonly held parts of the participants' belief structures. If such a conversation is interesting to either participant, it is probably because the part of the belief structure being made explicit has not been consciously verbalized before, or has never before been attached to the higher level node to which it is then coupled in that conversation, i.e., seen in that context, or because of the implicit support it is getting by being found to coexist in someone else.

二人の参加者がそれぞれの信念構造の中で同一のノードを(何かを明らかにするという意味で)発見し続ける限り、二人の会話は意気投合すると言えるでしょう。 このような状況下では、会話ツリーは、参加者の信念構造の共通に保持される部分に対応する線形に接続されたノードの集合にすぎません。 もしそのような会話がどちらかの参加者にとって興味があるならば、それはおそらく、明らかにされている信念構造の一部が、それまで意識的に言葉にされたことがなかったか、あるいはその会話の中でそれが結合される上位レベルのノードに結び付けられたことがなかったからでしょう。 つまり、その文脈の中で見られるか、あるいは他者と共存することによって得られる暗黙のサポートのためです。

Backtracking over the conversation tree takes place when a new context is introduced and an attempt is made to integrate it into the ongoing conversation, or when a new connection between the present and a previous context is suggested. In either case, there is a need to reorganize the conversation tree. Clearly the kind of psychotherapist initiated by the DOCTOR program restricts himself to pointing out new connectivity opportunities to his patients. I suppose his hope is that any reorganization of the conversation tree generated in the therapy session will ultimately reflect itself in corresponding modifications of his patients' belief structures.

会話ツリーのバックトラックは、新しいコンテキストが導入され、それを進行中の会話に統合しようとするとき、または現在のコンテキストと以前のコンテキストの間の新しい接続が提案されるときに行われます。 いずれの場合も、会話ツリーを再編成する必要があります。 DOCTORプログラムによって起動されるセラピストのたぐいは、明らかに患者に新たな繋がりの機会を指摘することに限定されています。 私が思うに、治療セッションで生み出された会話の系統樹の再編成が、最終的には患者の信念構造の対応する修正に反映されることが彼の望みでしょう。

ELIZA による会話構造の再現

I now turn back to the program reproduced earlier. I hope the reader found the conversation quoted there to be smooth and natural. If he did, he has gone a long way toward verifying what I said earlier about the investment a human will make in a conversation. Any continuity the reader may have perceived in that dialogue -- excepting only the last machine response -- is entirely illusionary. A careful analysis will reveal that each machine response is a response to the just previous subject input. Again with the exception of the last sentence, the above quoted conversation has no sub-contextual structure at all. Nor does the description of the program given in [6] give any clues as to how sub-contexts might be recognized or established or maintained by the machine.

ここで以前、再現したプログラムに戻ります。 そこで引用された会話がスムーズで自然なものであることを読者が理解してくれることを願っています。 もしそうなら、彼は人間が会話で行う投資について私が先に言ったことを検証するのに長い道のりを歩んできまたことになります。 読者がその対話で知覚した連続性は(最後のマシンの応答を除いて)すべて完全に幻想です。 注意深く分析をすれば、機械の各々の応答が直前の主題の入力に対する応答であることを明らかです。 繰り返しになりますが、最後の文を除いて、上に引用した会話にはサブコンテキスト構造がまったくありません。 また、 [6] で与えられたプログラムの記述は、マシンによってサブコンテキストがどのように認識され、確立され、維持されるかについてのいかなる手掛かりも与えません。

To get at the sub-context issue, I want to restate the overall strategy in terms somewhat different from those used above. We may think of the ELIZA script as establishing the global context in which subsequent conversations will be played out. The DOCTOR script establishes the Rogerian psychiatric context. The key word listings are guesses about what significant words might appear in the subject's utterances. The appearance of any of these words in an actual input tentatively directs the system's attention to decomposition rules associated with the identified word. These rules are hypotheses about what an input containing such words might mean. An important property of the system is that just as the entire set of key words need not be searched in the analysis of every input sentence, neither does the whole list of hypotheses about what any input might mean have to be tested in order to generate a response to a specific sentence. Should the set of hypotheses associated with the currently regnant key word be exhausted without success, there is a way (although not here described) to go to decomposition rules associated with lower ranking key words that may have appeared in the input string.

サブコンテキストの問題を理解するために、私は全体的な戦略を、上で使用したものとは少し異なる用語で再度述べたいと思います。 ELIZAスクリプトは、後続の会話が行われるグローバルコンテキストを確立するものと考えることができます。 DOCTORスクリプトは、ロジャー学派の精神医学的な背景を確立します。 キーワードの一覧は、被験者の発話にどのような重要な単語が現れるかについての推測です。 実際の入力にこれらの単語のいずれかが現れると、一時的に識別された単語に関連付けられた分解ルールにシステムの注意が向けられます。 これらのルールは、そのような単語を含む入力が意味することについての仮説です。 このシステムの重要な特性は、すべての入力文の分析においてキーワードの集合全体を検索する必要がないのと同様に、特定の文に対する応答を生成するために、入力が何を意味するかについての仮説のリスト全体をテストする必要もないということです。 現在の優勢なキーワードに関連付けられた仮説のセットが成功せずに使い果たされた場合、(ここでは説明しませんが)入力文字列に現れる可能性のある下位ランクのキーワードに関連付けられた分解ルールに進む方法があります。



Much is known about an input sentence once it matches a decomposition rule. If, for example, the rule

 (O MY (/FAMILY) DRINKS O)

matches a sentence, then we know that the subject matter is a family member, and that this person drinks. (The notation "(/A B C)" means that in that position a word "tagged" with any of the symbols A or B or C is looked for. Words are tagged as part of the script. This mechanism is not further discussed here.) A reassembly rule can subsequently identify the family member in question, e.g.,father. The successful matching of a decomposition rule -- hence, the verification of a hypothesis -- is therefore an opportunity not only to generate a plausible response but also to establish a sub-contextual node. The laying down of such a node does not mean merely remembering what is now being talked about, but what is more important, making hypotheses about what is likely to be said next within the new contextual framework.



入力文が分解ルールに一致することがよく知られています。 たとえば、次のルールが文章とマッチすれば

 (O MY (/FAMILY) DRINKS O)

その主題が家族の一員であり、その人が酒を飲むことがわかります。 ("(/A B C)" という表記は、その位置で、記号A、B、またはCのいずれかを持つ「タグ付き」の単語が検索されることを意味します。 単語はスクリプトの一部としてタグ付けされます。 このメカニズムについて、ここでは詳しく説明しません)。 後に、再組立ルールは問題の家族、例えば父親を同定できます。 したがって、分解ルールのマッチング、つまり仮説の検証は、もっともらしい応答を生成するだけでなく、サブコンテキストのノードを確立する機会でもあります。 そのようなノードの設定は、現在話していることを単に覚えていることを意味するのではなく、新しいコンテキストフレームワーク内で次に発話される可能性のあることについて仮説を立てて、より重要なことを覚えています。



The realization of such a mechanism in an ELIZA script involves attaching a substructure to decomposition rules which says, in effect, that if a so modified decomposition rule matches an input sentence and a suitable sub-context exists, then control is transferred to a set of decomposition and reassembly rules appropriate to that sub-context. The details of mechanization are not important here. I will, however, show its effect by exhibiting the following conversational fragment from the DOCTOR program:

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C: Because you are so stubborn.
E: IS THAT THE REAL REASON
C: Maybe
E: WHAT IS A BETTER REASON THEN
C: My stomach hurts.
E: TELL ME ABOUT YOUR PAINS IN GENERAL
C: My head bothers me, too.
E: YOU SEE SOME PSYCHOLOGICAL REASON WHY YOUR HEAD SHOULD PAIN YOU
C: Maybe.
E: YOU THINK COMING HERE MIGHT HELP ALLEVIATE YOUR HEAD PAIN
C: Certainly.
E: LET'S TALK ABOUT YOUR FEELINGS WHEN YOU THINK OF YOUR HEAD AND ITS PAINS
--------------------------------------------------------------------------------

We are here in the middle of a dialog. 
The first sentence is an input to the program, the next a machine response, and so on in alternation.

The word "because" was the key that triggered the first machine response. At the same time the reason sub-context, so to speak, was established. Notice that the next subject input, i.e., the word "maybe", was interpreted as meaning "no," as is appropriate in that particular context, and that a contextually correct machine response was produced. The next input serves to establish a "hurt" sub-context. I believe the conversation is self-explanatory from that point on. Notice, however, that in the new sub-context the word "maybe" which was earlier interpreted to mean "no" is now seen as meaning "yes." Under still other circumstances it would be understood as indicating uncertainty.



ELIZAスクリプトでこのようなメカニズムを実現するには、分解ルールにサブコンテキストを添付する必要があります。実際には、そのように修正された分解ルールが入力文と一致し、適切なサブコンテキストが存在する場合、制御はそのサブコンテキストに適した一連の分解および再構築ルールに転送されます。 機械化の詳細はここでは重要ではないですが、DOCTORプログラムからの以下の会話の断片を示すことによって、その効果を示すことにします。

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C: なぜなら、あなたはとても頑固だから。
E: それが本当の理由なのですか?
C: たぶん
E: その方が良い理由は何ですか?
C: お腹が痛い
E: 痛み全般について教えてください。
C: 頭も痛い
E: 頭が痛くなる心理学的な理由があるのですか?
C: たぶんね
E: ここに来れば頭の痛みが和らぐかも
C: そのとおり
E: 頭とその痛みを考えたときの気持ちを話しましょう。
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対話中は、
最初の文はプログラムへの入力、次の文はマシンの応答、以下同様に交互に続きます。

"because" という言葉が、最初のマシンの応答の引き金となりました。 同時に、いわば、理由のサブコンテキストが確立されました。 次のサブジェクト入力、すなわち、単語 "maybe" は、その特定の文脈において適切であるように、"no," を意味するものとして解釈され、文脈的に正しい機械応答が生成されたことに注目してください。 次の入力は、"hurt" サブコンテキストを確立する役割を果たします。 私はその会話がその時点から自明だと信じてます。 しかし、新しいサブコンテキストでは、以前は "no" を意味すると解釈されていた単語 "maybe" が、現在では "yes" を意味すると解釈されていることに注意してください。 さらに他の状況では、不確実性を示すと理解されるでしょう。



My secretary watched me work on this program over a long period of time. One day she asked to be permitted to talk with the system. Of course, she knew she was talking to a machine. Yet, after I watched her type in a few sentences she turned to me and said "Would you mind leaving the room, please?" I believe this anecdote testifies to the success with which the program maintains the illusion of understanding. However, it does so, as I've already said, at the price of concealing its own misunderstandings. We all do this now and then, perhaps in the service of politeness or for other reasons. But we cannot afford to elevate this occasional tactic to a universal strategy. Thus, while the DOCTOR program may be useful as an instrument for the analysis of two-person conversations, and while it is certainly fun, its aim must be changed from that of concealment of misunderstanding to its explication.

私の秘書は私が長い間このプログラムに取り組んでいるのを見ました。 ある日、彼女はシステムと話せるように頼んできました。 もちろん、彼女は機械と話していることを知っていました。 それでも、私は彼女のタイプを数文で見た後、彼女は私に向き直り「部屋を出てくれませんか?」と言いました。 この逸話は、プログラムが理解しているという幻想を維持することに成功していることを証明していると思います。 ただし、既に述べたように、誤解を隠すという代価を払ってそうしているのです。 私たちは皆、時折、丁寧さやその他の理由でこれを行います。 しかし、この時折の戦術を普遍的な戦略に引き上げることはできません。 したがって、DOCTORプログラムは二人の会話を分析するための手段として有用である可能性がありますし、それは確かに楽しいものですが、その目的は誤解の隠蔽からその説明に変更する必要があります。

新しいELIZAについて

Another difficulty with the system currently under discussion is that it can do very little other than generate plausible responses. To be sure, there are facilities for keeping and testing various tallies as well as other such relatively primitive devices, but the system can do no generalized computation in either the logical or numerical sense. In order to meet this and other deficiencies of the original ELIZA system, I wrote a new program, also called ELIZA, which has now replaced its ancestor.

現在議論中のシステムのもう1つの難点は、もっともらしい応答を生成する以外にほとんど何もできないことです。 確かに、さまざまな集計やその他の比較的原始的なデバイスを保持・テストする機能がありますが、システムは論理的にも数値的にも一般化された計算を行うことはできません。 オリジナルの ELIZA システムのこの欠陥やその他の欠陥に対処するために、ELISAと呼ぶ新しいプログラムを作成しました。 このプログラムは現在、元のプログラムに取って代わられています。

The ELIZA differs from the old one in two main respects. First, it contains an evaluator capable of accepting expressions (programs) of unlimited complexity and evaluating (executing) them. It is, of course, also capable of storing the results of such evaluations for subsequent retrieval and use. Secondly, the idea of the script has been generalized so that now it is possible for the program to contain three different scripts simultaneously and to fetch new scripts from among an unlimited supply stored on a disk storage unit, intercommunication among coexisting scripts is also possible.

ELIZAは主に2つの点で古いものと異なります。 まず、無限の複雑さの数式(プログラム)を受け入れ、それらを評価(実行)することができる評価器が含まれています。 もちろん、その後の検索と使用のために、このような評価結果を保存することもできます。 次に、スクリプトの概念が一般化されたため、プログラムに3つの異なるスクリプトを同時に含めることができ、ディスク・ストレージ・ユニットに格納されている無制限の供給から新しいスクリプトをフェッチできるようになり、共存するスクリプト間の相互通信も可能になりました。

スクリプトの階層化

The major reason for wishing to have several scripts available in the core (i.e., high speed) memory of the computer derives from the arguments about contexts I made above. The script defines, so to speak, a global context within which all of the subsegment conversation is to be understood. We have seen that it is possible for a single script to establish and maintain sub-contexts. But what is a sub-context from one point of view is a major (not to say global) one as seen from another perspective. For example, a conversation may have as its overall framework the health of one of the participants but spend much time under the heading of stomach disorders and headache remedies.

(高速な)コンピューターのコアメモリでいくつかのスクリプトを使用できるようにしたい主な理由は、上記で作成したコンテキストに関する引数に由来します。 スクリプトは、いわば、すべてのサブセグメントの会話が理解されるグローバル・コンテキストを定義します。 単一のスクリプトでサブ・コンテキストを確立し維持することが可能であることがわかりました。 しかし、ある観点から見るとサブ・コンテキストとは、別の観点から見た場合の主要な(グローバルとは言えない)サブ・コンテキストです。 たとえば、会話の全体的なフレームワークとして、ある参加者の健康状態ではありますが、胃の病気や頭痛の治療の見出しの下で多くの時間を費やすことがあります。

In principle one large, monolithic ELIZA script could deal with this. However, such a script would be very long and extremely difficult to modify and maintain. Besides, long exposure to computer programming should at least instill a healthy respect for subroutines, their power and utility. In the new ELIZA system scripts are in fact very much like subroutines. One script plays the role of the so-called "main program," i.e., it is the one far calling in and replacing subscripts. This is the one which, in an important sense, governs the computer's role in the conversation. Such a script may, for example, play the role of an initial interviewer in a hospital, i.e., a person who knows just enough about the field of medicine and the organization of the hospital to be able to determine, by means of appropriate questions, to whom the incoming patient is to be directed. A more highly specialized script then plays the role of that person. It may call on still further levels of scripts -- and each script, except for the "main" one, can return the issue up one or more levels with information "explaining" that action.

原則として、1つの大きな一体型のELIZAスクリプトでこれを処理できます。 しかし、このようなスクリプトは非常に長く、変更や保守が非常に困難です。 また、コンピュータープログラミングに長時間さらされると、少なくともサブルーチンの、そのパワーと利便性が健全に尊重されるようになります。 新しいELIZAシステムでは、スクリプトは実際にはサブルーチンに非常によく似ています。 1つのスクリプトは、いわゆる「メインプログラム」の役割を果たします。つまり、サブスクリプトを呼び出して置き換えるスクリプトです。 これは、本来の意味で、会話におけるコンピュータの役割を管理するものです。 このようなスクリプトは、たとえば、病院の最初のインタビュア、つまり、適切な質問によって、医療の分野と病院の組織について十分に知っている人が、入ってくる患者が誰に向けられるか?といった役割を果たします。 次に、より高度に専門化されたスクリプトがその人物(専門家)の役割を果たします。 さらにレベルの高いスクリプトを呼び出す場合があります。「メイン」スクリプトを除く各スクリプトは、そのアクションを「説明」する情報とともに1つ以上のレベルに問題を返すことができます。

We saw earlier how the word "maybe" was differentially interpreted in what might be called different micro contexts. The hierarchy of scripts now under discussion makes much more nearly global contextual distinctions possible. For example, the word "tone" probably means muscle tone to the internist but audio tone to the ear specialist. The occurrence of that word as a key word would establish an entirely different contextual mode, or call in a different sub-script, depending on whether it was identified in an internist or an ear specialist script.

私たちは以前 "maybe" という言葉が、異なるマイクロ・コンテキストと呼ばれるものでどのように区別して解釈されるかを見てきました。 現在議論中のスクリプトの階層構造により、よりグローバルに近いコンテキストの区別が可能になります。 たとえば、"tone" という言葉は、おそらく内科医には筋肉の調子を意味しますが、耳の専門家には音調を意味します。 その単語がキーワードとして出現すると、完全に異なるコンテキストモードが確立されるか、内科医または耳鼻科医のスクリプトで識別されたかどうかに応じて、異なるサブスクリプトが呼び出されます。

Of course, another important advantage of this kind of subscripting is that scripts (sub or otherwise) can presumably be written by specialists in a very narrow field. The fact that scripts now tend to be rather short means that a specialist might actually find the time to produce one as part of a larger cooperative effort.

もちろん、この種のサブスクリプトのもう1つの重要な利点は、非常に狭い分野の専門家がスクリプト(サブまたはその他)を作成できることです。 現在、スクリプトがかなり短くなる傾向があるということは、専門家が実際に大きな共同作業の一環としてスクリプトを作成する時間を見つけられることを意味します。

数式評価器の導入

The conversations reproduced below were governed by a script in the new ELIZA system. This script was designed to illustrate the power of the evaluator to which ELIZA has access. The key word and other such mechanisms are not very different from those described above. The important departure is that expressions can be turned over to the evaluator, evaluated, and the results displayed and stored.

以下に再現された会話は、新しいELIZAシステムのスクリプトによって管理されています。 このスクリプトは、ELIZAがアクセスできる評価器の力を示すために設計されました。 キーワードおよびその他の類似のメカニズムは、上記のメカニズムとそれほど変わりません。 重要な違いは、式を評価器に引き渡し、評価し、結果を表示および保存できることです。

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C: The area of a circle is pi times the radius of the circle squared.
C: The area of a sphere is pi times the diameter of the sphere squared.
C: The area of a square is the side of the square squared.
C: The diameter of an object is twice the radius of the object.
C: The radius of a ball is 10.

C: What is the area oi the ball.

E: THE ASSUMPTION THAT BALL IS CIRCLE IS CONSISTENT -- SHALL I GO ON? no
E: THE ASSUMPTION THAT BALL IS SPHERE AND OBJECT IS CONSISTENT -- SHALL I GO ON? yes
E: IT'S 1256.6359

C: What is the diameter of the ball.
E: IT'S 20

C: The radius of a dish is 10.
C: What's the area of the dish.
E: THE ASSUMPTION THAT DISH IS CIRCLE IS CONSISTENT -- SHALL I GO ON? yes
E: IT'S 314.15899

C: The radius of a globe is 10.
C: A globe is a sphere. A sphere is an object.
C: What is the area of the globe.
E: IT'S 1256.6359

C: The side of a plate is 10.
C: What is the area of the plate.
E: THE ASSUMPTION THAT PLATE IS SQUARE IS CONSISTENT -- SHALL I GO ON? yes
E: IT'S 100

C: When I say board I mean plate.
C: What is 3 times the side of the board.
E: It's 30.

C: Please call that x.
C: Let f(z) be z squared minus z.
C: Compute f(x).
E: It's 870.

C: When I say ich sage I mean I say.
C: When ich sage meine ich I mean I mean.
C: When ich sage wieviel ist meine ich what is.
C: When ich sage quadrat meine ich squared.
C: Nun, sagen sie mir bitte, wieviel is x quadrat.
E: I DIDN'T UNDERSTAND YOU.
C: Ja, tut mir leid, ich sollte fragen wieviel IST x quadrat.
E: IT'S 900.

C: Thank you.
E: YOU'RE QUITE WELCOME, COME AGAIN
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The particular example shown here is one in which the system is asked not merely to entertain but to perform some useful service. The script is one which establishes a context in which a few terms can be interpreted as giving directions about the evaluation of certain expressions. The number of keys which actually lead to decomposition rules is very small. They are as follows:

ここに示されている特定の例は、単に楽しませるだけでなく、何らかの有用なサービスを実行するようにシステムに求められるものです。 このスクリプトは、特定の表現の評価に関する指示を与えるものとしていくつかの用語を解釈できるコンテキストを確立するものです。 実際に分解規則につながるキーの数は非常に少なく、 次のとおりです。

I mean
Is (* a an)
Of (* a an the)
What (* the is)
Where
Call
Let
Define
Compute
Also
Thanks

(A key of the form "Is ( a an)" will match either "Is a" or "Is an".) In addition, there are 1/substitution keys like "Twice = 2". The effect of that particular one is to substitute the symbols "2*" whenever the word "twice" appeared in the input text. Of course, the evaluator sitting behind ELIZA, so to speak, recognizes words like "SQRT", "LOG", etc. The function of this script is to interpret the user's wishes with respect to the evaluation of expression, perform certain translation functions on these expressions, and control the traffic between the input/output system of ELIZA and that of the evaluator.

("Is ( a an)" という形式のキーは、"Is a" または "Is an" のいずれかに一致します) さらに "Twice = 2" のような 1/substitution があります。 その結果、入力テキストに単語「twice」が現れるたびに記号 "2*" を置き換えることができます。 もちろん、ELIZA の背後にある評価器は、いわば "SQRT" や "LOG" などの単語を認識します。 このスクリプトの機能は、表現の評価に関するユーザーの要望を解釈し、これらの表現に対して特定の翻訳機能を実行し、ELIZAの入出力システムと評価器の入出力システム間のトラフィックを制御することです。

Consider the dozen keys shown above. The sentence "Let me try to define what the call of the sea means" contains five of these keys. It could perhaps be understood by the DOCTOR but not by the program we are now considering. It would reply "I didn't understand you."

上記の12個のキーを考慮して見てください。 "Let me try to define what the call of the sea means" という文には、これらのキーが5つも含まれています。 おそらくDOCTORには理解できますが、現在検討中のプログラムには理解できません。 "I didn't understand you." と答えるでしょう。

I call attention to this contextual matter once more to underline the thesis that, while a computer program that "understands" natural language in the most general sense is for the present beyond our means, the granting of even a quite broad contextual framework allows us to construct practical language recognition procedures.

このコンテキストに関わる問題についてもう一度注意を喚起し、次の命題を強調します。 最も一般的な意味で自然言語を「理解」するコンピュータープログラムは、現時点では私たちには手に負えませんが、 非常に広範なコンテキスト・フレームワークさえも付与すれば、実用的な言語の認識手順を構築することができます。

The present script is designed to reveal, as opposed to conceal, lack of understanding and misunderstanding. Notice, for example, that when the program is asked to compute the area of the ball, it doesn't yet know that a ball is a sphere and that when the diameter of the ball needs to be computed the fact that a ball is an object has also not yet been established. Appropriate questions are therefore asked. But when, later on, the area of the globe is required, all the parameters are known and no questions are asked. The transcript also makes clear that the program now has memory and, of course, that it can compute.

現在のスクリプトは、隠蔽とは対照的に、理解の欠如と誤解を明らかにするように設計されています。 たとえば、プログラムがボールの面積を計算するように要求されても、ボールが球体であることは認識されず、ボールの直径を計算する必要があるときには、ボールがオブジェクトであるという事実もまだ確立されていないことに注意してください。 したがって、適切な質問が求められます。 しかし、その後、地球の面積が必要になった場合、すべてのパラメーターは既知であり、質問されることはありません。 上記で再現されたログは、プログラムにメモリがあり、もちろん計算できることも明らかにしています。

対話システムの応用について

I can imagine at least two questions that might have arisen in the mind of the reader in response to the above material. First, but least important, is what role the kind of psychiatric program shown here has in serious psychotherapy. My answer to that must be that psychotherapy is not my field and that I have no intention to pursue any therapeutic implications of this work. It is clear that there is considerable psychological material to be exploited here, material that may conceivably lead to some therapeutic developments. There may also be some use in this kind of technique in simulation of the neurotic processes. K. M. Colby, a practicing psychoanalyst, does propose to use conversational programs as psychotherapeutic tools vis-a-vis real patients. I believe the unsolved technical problems in the computer realm alone are so enormous as to guarantee the postponement of the realization of such a goal for yet a very long time.

上記の質問に答えて読者の心に浮かんだ疑問は、少なくとも二つは想像できます。 第一に、さほど重要ではありませんが、ここに示したような精神医学プログラムが重篤な精神療法においてどのような役割を果たしているかです。 それに対する私の答えは、精神療法は私の専門分野ではなく、この研究の治療的意味合いを追求するつもりはないということでなければならないでしょう。 ここで利用されるべき相当な心理学的材料があることは明らかであり、この材料は治療の発展につながる可能性はあります。 この種の技術は、神経過程のシミュレーションにも利用できるかもしれません。 精神分析医の K.M.Colby は、実際の患者に対する心理療法ツールとして会話プログラムを使うことを提案しています。 私は、コンピュータの分野だけでも、解決されていない技術的な問題は非常に大きいので、そのような目標の実現が、まだ非常に長い間延期されることを保証できると信じています。

The second question concerns itself with the implications of this work on so-called teaching machines. Here I feel on much firmer ground. It is my belief that the kind of programmed teaching that is based on multiple choice testing of the student is best done without the use of computers. With the techniques described here, it becomes possible to instruct the student in a corner of some field and then, the contextual framework having been established, to have the student interact with the machine in natural language. The following conversation, based on a script written by Dr. Edwin Taylor of the Education Research Center of MIT, makes the point very well.

第二の問題はいわゆる教育用マシンに対するこの研究の意味に関係しています。 ここではもっとしっかりした足場を感じます。 私の考えでは、生徒の複数選択テストに基づいたプログラム化された授業は、コンピュータを使わずに行うのが最善だと思います。 ここで説明した技術により、ある分野の片隅で学生に指示し、その後、文脈的枠組みが確立され、学生に自然言語で機械と対話させることが可能になります。 以下の会話は、MIT教育研究センターの Edwin Taylor 博士によって書かれたスクリプトに基づいており、この点を非常にうまく指摘しています。

--------------------------------------------------------------------------------
PLEASE CONSIDER HOW WE MIGHT SYNCHRONIZE TWO CLOCKS TO READ THE 'SAME TIME'. ONE OF THESE CLOCKS IS IN SAN FRANCISCO, THE OTHER IS IN NEW YORK. AS YOU THINK ABOUT THE PROBLEM, ASK ME ANY QUESTIONS THAT OCCUR TO YOU. WHEN YOU ARE READY TO PROPOSE A SYNCHRONIZATION METHOD, TYPE 'READY'. THEN I WILL QUIZ YOU ABOUT YOUR PROPOSED METHOD.

what do you mean by synchronize

FOR THE PRESENT MAKE USE OF THE EVERYDAY MEANINGS OF SUCH PHRASES AS 'SAME TIME' AND 'SYNCHRONIZE'. LATER WE WILL DISCUSS THE MEANING OF THESE TERMS MORE CAREFULLY

may i use telegraph, signals

CERTAINLY, FEEL FREE TO USE TELEGRAPH

ready

NOW I WILL QUIZ YOU ON YOUR SYNCHRONIZATION METHOD DOES YOUR METHOD OF SYNCHRONIZATION INVOLVE THE PROPAGATION OF SOME SIGNAL -- OR MATERIAL OBJECT -- FROM ONE PLACE TO ANOTHER

yes

WHAT KIND OF PROPAGATING SIGNAL OR TRAVELING OBJECT DO YOU PROPOSE TO USE

a watch

WILL YOUR WATCH MOVE AT A SPEED VERY MUCH SMALLER THAN THE SPEED OF LIGHT

of course

GOOD. TRAVELLING CLOCKS CAN BE USED TO SYNCHRONIZE DISTANT CLOCKS TO ARBITRARILY HIGH ACCURACY IF THEY TRAVEL SLOWLY ENOUGH. YOU MAY LEAVE THE PROBLEM BY PUSHING THE 'QUIT' BUTTON TWICE. IF YOU WOULD LIKE TO EXPLORE FURTHER THE MATTERS OF PRINCIPLE ASSOCIATED WITH OTHER METHODS, CHOOSE ANOTHER WAY TO COMMUNICATE BETWEEN THE DISTANT CLOCKS. WHAT KIND OF PROPAGATING SIGNAL OR TRAVELING OBJECT DO YOU PROPOSE TO USE.

light

WELL, OF COURSE THE LIGHT SIGNAL WILL NOT FOLLOW THE CURVATURE OF THE EARTH. SO LET US ASSUME THAT SOME SYSTEM OF RELAY TOWERS IS USED. 
NOW LET ME ASK, WILL THE LIGHT SIGNAL TRAVEL DIRECTLY BETWEEN NEW YORK AND SAN FRANCISCO OR WILL THE LIGHT SIGNAL TRAVEL TO OR FROM SOME INTERMEDIATE POINT

it will travel from St. Louis in both directions

IS YOUR INTERMEDIATE POINT EQUIDISTANT FROM NEW YORK AND SAN FRANCISCO

let's say it is, yes

MY UNDERSTANDING IS THAT YOU EXPECT TO USE TWO SIGNALS AND THAT THESE SIGNALS WILL EITHER CONVERGE ON OR BE SENT OUT FROM A POINT EQUIDISTANT FROM NEW YORK AND SAN FRANCISCO. IS MY UNDERSTANDING ON THIS POINT CORRECT?

yes

WILL THIS PAIR OF SIGNALS CONVERGE ON THE INTERMEDIATE POINT OR BE SENT OUT FROM THIS POINT

they will be sent from the point

WILL THE TWO SIGNALS LEAVE THE INTERMEDIATE POINT AT THE SAME TIME?

certainly

AHA, I'VE GOT YOU. YOU ARE TRYING TO SYNCHRONIZE THE NEW YORK AND SAN FRANCISCO CLOCKS TO READ THE 'SAME TIME'. HOW CAN IT BE VALID TO ASSUME A 'SAME TIME' FOR THE DEPARTURE OF A PAIR OF SIGNALS FROM THE MIDPOINT?

because the pair of signals leave from the same point

RIGHT, THE PHRASE 'SAME TIME' HAS AN UNAMBIGUOUS MEANING WHEN APPLIED TO EVENTS THAT OCCUR NEAR THE SAME POINT IN SPACE. NOW YOU ARE GOING TO CONTINUE YOUR ARGUMENT BY SAYING THAT THE TWO SIGNALS THAT START FROM THE MIDPOINT AT THE SAME TIME WILL PRESUMABLY REACH NEW YORK AND SAN FRANCISCO AT THE SAME TIME. THESE SIGNALS CAN THUS BE USED TO SYNCHRONIZE THE NEW YORK AND SAN FRANCISCO CLOCKS. IS THIS THE WAY YOUR ARGUMENT WILL CONTINUE?

yes

ONE FINAL QUESTION. WHAT ASSUMPTION ARE YOU MAKING ABOUT THE SPEEDS OF THE TWO SIGNALS THAT TRAVEL IN OPPOSITE DIRECTIONS

that these speeds are equal

VERY GOOD. YOU HAVE DEVISED A VALID METHOD FOR SYNCHRONIZING TWO CLOCKS, ONE IN NEW YORK AND ONE IN SAN FRANCISCO. I AM NOW RETURNING YOU TO THE CTSS SYSTEM
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E: 「同じ時刻」を読み取るために2つのクロックを同期する方法を検討してください。これらの時計の1つはサンフランシスコにあり、もう1つはニューヨークにあります。あなたが問題について考えると、あなたに起こったどんな質問でも私に尋ねてください。同期方法を提案する準備ができたら、「準備完了」と入力します。次に、提案されたメソッドについてクイズします。
C: 同期するとはどういう意味ですか
E: 現在、このようなフレーズの日常的な意味を「同じ時間」および「同期」として使用してください。後で、これらの条件の意味をさらに慎重に説明します
C: 電信、信号機を使用できますか
E: 確かに、電信を自由に使用できます
C: 準備完了
E: 今から私はあなたの同期方法をあなたにクイズします。あなたの同期方法は、ある場所から別の場所へのいくつかの信号(または材料オブジェクト)の伝播を含みます。
C: はい
E: どのような種類の信号または移動オブジェクトの伝播を使用することを提案しますか
C: ウォッチ
E: あなたの時計は光の速度よりもはるかに小さい速度で動きます
C: もちろん
E: 結構。ゆっくりと十分に移動する場合、移動クロックを使用して、遠隔クロックを任意の高精度に同期させることができます。「QUIT」ボタンを2回押すことで問題を解決できます。他の方法に関連する原則の問題をさらに詳しく調べたい場合は、距離のあるクロック間で通信する別の方法を選択してください。どのような種類の信号または移動オブジェクトを使用することを提案しますか。
C: 光
E: もちろん、光信号は地球の曲率をたどることはありません。それでは、いくつかのシステムのリレータワーが使用されていると仮定しましょう。今すぐ私に尋ねて、ライトシグナルトラベルをニューヨークとサンフランシスコの間で直接移動するか、またはライトシグナルトラベルをいくつかの中間地点間で行き来させます
C: セントルイスから両方向に移動します
E: あなたはニューヨークとサンフランシスコから均等の中間点を置くということですか?
C: はい、そうです
E: 私の理解は、あなたが2つの信号を使用することを期待し、これらの信号がニューヨークとサンフランシスコからの均等なポイントに収束するか、送信されることです。この点について私の理解は正しいですか?
C: はい
E: この信号のペアは、中間点で収束するか、この点から送信されますか?
C: それらはポイントから送信されます
E: 2つの信号は、同時に中間点を離れますか?
C: もちろん
E: なるほど、わかった。あなたは「同じ時間」を読むためにニューヨークとサンフランシスコの時計を同期させようとしています。ミッドポイントからの信号のペアの出発に対して「同じ時間」を仮定することはどのように有効ですか?
C: 信号のペアが同じポイントから出るため
E: その通り。空間の同じポイントの近くで発生するイベントに適用される場合、正しい「同じ時間」というフレーズには曖昧な意味があります。今、あなたは同じ時間にミッドポイントから始まる2つの信号が同じ時間にニューヨークとサンフランシスコに届くと言うことによってあなたの主張を続けるつもりです。これらの信号を使用して、ニューヨークとサンフランシスコの時計を同期できます。これはあなたの主張が続く道ですか?
C: はい
E: 最後に1つ質問。反対方向に移動する2つの信号の速度について、どのような仮定をしますか?
C: これらの速度が等しいこと
E: 素晴らしい。ニューヨークとサンフランシスコの2つの時計を同期する有効な方法を考案しました。 CTSSシステムに戻ります。
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I have chosen to skew this discussion in the direction of "understanding" and have used that difficult word almost as if it were synonymous with "recognition." Actually, recognition is a prerequisite to understanding. The latter provides a test of the former. Even though no test of understanding can be defined with rigor, we do feel we are understood when the person we're talking to asks what we believe to be relevant questions and when he finally answers our question or solves the problem we posed. By such criteria, the conversations displayed above justify the assertion that the programs that produced the responses recognized textual patterns and understood what they were being told.

私はこの議論を「理解する」の方向にゆがめ、まるで「認識する」と同義であるかのように難しい言葉を使ってきました。 実際、理解するためには認識が必要です。後者は前者のテストを提供します。 厳密さをもって理解のテストを定義することはできませんが、私たちが話している相手が私たちに関連すると思われる質問をしたとき、そして彼が最終的に私たちの質問に答えたり、私たちが提起した問題を解決したりしたとき、私たちは理解されていると感じています。 このような基準によって、上に示した会話は、応答を生成したプログラムがテキストのパターンを認識し、彼らが言われていることを理解したという主張を正当化します。

参考となる先行研究事例

Finally, I wish to call attention to three pieces of work, two of which predate the programs discussed here and to whose authors I owe a considerable intellectual debt. The last is more recent but nevertheless highly relevant to my own current line of attack. 最後に、3つの研究に注目していただきたいと思います。 そのうちの2つは、ここで議論されているプログラムよりも前のもので、著者にはかなりの知的負債があります。 最後のものは、より最近のものですが、それにもかかわらず、私自身の現在の研究目標に非常に関連しています。

The SIR program of Raphael is capable of inferential data acquisition in a way analogous to that displayed in the ELIZA ball and sphere conversation displayed above. Notice that in that conversation the program had to infer that a ball was a sphere and an object. Once that inference was affirmed, the program retained the information by, in this ease, associating with ball the fact that it is a sphere and an object and with sphere and object that ball is an instance of each, respectively. SIR is a program which specializes in establishing such relationships, remembering and invoking them when required. One of its principal aims was to establish methodology for formalizing a calculus of relations and even relations among relations.

RaphaelのSIRプログラムは、上記のELIZAのボールと球体の会話で表示されるのと同様の方法で、推論データを取得できます。 この会話では、プログラムはボールが球体でありオブジェクトであると推論しなければならなかったことに注意してください。 その推論が確認されると、プログラムは、この簡単な方法で、球とオブジェクトであるという事実と、球がそれぞれのインスタンスである球とオブジェクトとを関連付けることにより、情報を保持しました。 SIRは、そのような関係を確立し、必要に応じてそれらを記憶し、呼び出すことに特化したプログラムです。 その主な目的の1つは、関係の計算や関係間の関係さえも形式化する方法論を確立することでした。

Bobrow's program STUDENT is capable of solving so-called algebra word problems of the kind that are typically given in high school algebra texts. He uses a mechanism not very different from an ELIZA script. Its chief task is to transform the input text, i.e., the natural language statement of an algebra word problem, into a set of simultaneous linear equations that may then be evaluated to produce the desired result. A particular strength of his program is its power to recognize ambiguities and resolve them, often by appeal to inferentially acquired information but sometimes by asking questions.

Bobrow のプログラム STUDENT は、高校の代数の教科書によく出てくる、いわゆる代数単語の問題を解くことができます。 彼は ELIZA スクリプトとあまり変わらないメカニズムを使っています。 その主な仕事は、入力テキスト、すなわち代数問題の自然言語文を、一連の連立線形方程式に変換し、それを評価して目的の結果を生成することです。 彼のプログラムの特別な強みは、曖昧さを認識し、それを解決する能力です。 多くの場合、推測的に取得した情報にアピールしますが、質問をすることもあります。

 

The work of Quillian is mainly directed toward establishing data structures capable of searching semantic dictionaries. His system could, for example, decide that the words "work for" in the sentence "John works for Harry." mean "is employed by", while the same words appearing in the sentence "That algorithm works for all even numbers that are not perfect squares." mean "is applicable to."

Quillianの仕事は主にセマンティックな辞書を検索できるデータ構造を確立することに向けられています。 例えば、彼のシステムは "John works for Harry." という文の中の "work for" という言葉が "is employed by"(によって採用される) を意味し、"That algorithm works for all even numbers that are not perfect squares." という文の中に現れる同じ言葉が "is applicable to"(に適用される) を意味すると決定することができます。

 

Each of the computer papers referenced below represents an attack on some component of the machine understanding problem. That problem is not yet solved. 以下に引用するコンピュータの論文はいずれも、機械理解問題のある構成要素に対する取り組みを表していますが、その問題はまだ解決されていません。

 

RECEIVED APRIL, 1967

REFERENCES

参考文献

1. BORROW, D. G.
Natural language input for a computer problem-solving system.
Ph.D. Thesis, MIT, Dept. of Mathematics, Cambridge, Mass. 1964.

2. COLBY, KENNETH MARK.
Computer simulation of change in personal belief systems.
Paper delivered in Section L2, The Psychiatric, Sciences, General Systems Research, AAAS Berkeley Meeting, December 29, 1965.
To appear in Behav. Sci., 1967.

3. QUILLIAN, M. R.
Semantic memory.
Ph.D. Thesis, Carnegie Inst. of Technology, Pittsburgh, Pa., 1966.

4. RAPHAEL, B.
SIR: A computer program for Semantic Information Retrieval.
Ph.D. Thesis, MIT, Dept. of Mathematics, Cambridge, Mass., 1964.

5. ROGERS,C.
Client Centered Therapy: Current Practice, Implications and Theory.
Houghton Mifflin, Boston, 1951.

6. WEIZENBAUM, JOSEPH.
ELIZA -- a computer program for the study of natural language communication between man and machine.
Comm. ACM 9, 1(Jan. 1966),36-45.

備忘録:ブログで扱ったSFとAIのトピックの年表

今まで扱ったトピックを年表にしてみました


2019/11/3
藤田昭人


前回 の告知で「序章はそろそろ一旦区切りにして本編に戻る」と宣言したのですが、 これまで半年近く書きつられてきた事がどういう脈絡なのか 書いてる本人にもわからなくなってきてしまったので 年表に整理してみました(笑)

AI(人工知能)に関わるトピックはボールドで それ以外の情報系のトピックはイタリックで プレーンなフォントはSF関連のトピックで書いてあります。 (アイザック・アシモフのポジトロニック・ロボット・シリーズの単行本2冊の出版はアンダーラインを引きました)

右端の「*」マークには登場するブログ記事へのリンクが貼ってあります。 「ー」マークは「ブログでは触れたけど記事として掘り下げてないトピック」を示してあります。 なお「空白」は「今後、記事として書くかもしれない」トピックです。

出来事 備考  
1818 小説『フランケンシュタイン メアリー・シェリ
1886 小説『未来のイヴ オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン
1920 戯曲『R.U.R.』 カレル・チャペック
1927 映画『メトロポリス フリッツ・ラング
1937 雑誌「アスタウンディング」 ジョン・キャンベルが編集長に就任
1940 小説『ロビィ』 アイザック・アシモフ
1941 小説『われ思う、ゆえに…』 アイザック・アシモフ
1941 小説『うそつき』 アイザック・アシモフ
1942 小説『堂々めぐり』 アイザック・アシモフロボット工学三原則
1942 小説『AL76号失踪す』 アイザック・アシモフ
1942 小説『思わざる勝利』 アイザック・アシモフ
1944 小説『野うさぎを追って』 アイザック・アシモフ
1944 小説『デッドライン』 クリーヴ・カートミル事件
1945 小説『逃避』 アイザック・アシモフ
1946 小説『証拠』 アイザック・アシモフ
1947 小説『迷子のロボット』 アイザック・アシモフ
1948 書籍「サイバネティックス ノバート・ウィーナー
1950 チューリング・テスト Computing Machinery and Intelligence"
1950 小説『災厄のとき』 アイザック・アシモフ
1950 書籍「われはロボット」 アイザック・アシモフ
1951 小説『お気に召すことうけあい』 アイザック・アシモフ
1955 小説『危険』 アイザック・アシモフ
1956 小説『第一条』 アイザック・アシモフロボット工学三原則
1956 映画「禁断の惑星 ロビー・ザ・ロボットが登場
1956 ダートマス会議 ジョン・マッカーシー、マービンミンスキー
1957 スプートニク・ショック
1957 小説『みんな集まれ』 アイザック・アシモフロボット工学三原則
1957 小説『校正』 アイザック・アシモフ
1958 ARPA創設、NASA発足
1958 小説『レニイ』 アイザック・アシモフ
1958 LISP1 ジョン・マッカーシー
1959 General Problem Solver サイモン、ニューウェル、"Report on a general problem-solving program"
1959 MIT AIラボ 設立 ジョン・マッカーシーマービン・ミンスキー
1960 論文「人工知能への歩み」 マービン・ミンスキー"Steps Toward Artificial Intelligence"
1961 ケネディ・アポロ演説 "Special Message to the Congress on Urgent National Needs"
1962 ARPA IPTO設立 JCRリックライダー
1963 Project Mac Multics
1964 Project Genie UCB, SDS940, Berkeley Timesharing System
1964 書籍「ロボットの時代」 アイザック・アシモフ
1965 論文「錬金術人工知能 ヒューバート・ドレイファス、”Alchemy and Artificial Intelligence"
1966 ALPACレポート "Language and Machines — Computers in Translation and Linguistics"
1966 ELIZA第1論文 "A Computer Program For the Study of Natural Language Communication Between Man And Machine"
1967 ELIZA第2論文 "Contextual Understanding by Computers"
1968 映画「2001年宇宙の旅 スタンリー・キューブリックHAL 9000が登場
1972 ドレイファス書籍 "What Computers Can't Do: The Limits of Artificial Intelligence"
1976 ワイゼンバウム書籍 "Computer Power and Human Reason"
1979 ドレイファス書籍(再販) "What Computers Can't Do: The Limits of Artificial Intelligence"

もちろん、僕はAI(人工知能)の本を書こうとしているので、 その起点は1956年のダートマス会議になるのですが、 序章ではその背景を概観するつもりでした。 が、見通しが甘くてこづってしまった…という事です。 僕の印象では3つの系譜があったように(今のところは)理解しています。

その1つは 前編中編 で扱った原子爆弾の研究開発の系譜です。その功罪はともかく、 原子爆弾が第2時世界大戦期の最大の科学技術成果であることは事実で、その後も ヴァネヴァー・ブッシュ が強力に推し進めた「国家が先端科学技術の研究開発を積極的に支援する」体制は 先端科学技術の研究開発をファンダメンタルな部分(特に資金面で)を支え続けていることは否めません *1

2つ目は、宇宙開発の系譜です。ロケットと人工知能は直接結びつかない印象がありますが、 ロケットに乗ってた宇宙旅行をするには「計算する機械」の高度化や小型化が必要でした。 つまり今日の「情報技術」を必要とする直接の(強い)要因は宇宙開発だったと僕は考えてます。 この系譜での主役は間違いなく ヴェルナー・フォン・ブラウン なんだと思います。彼の成果と言えば、ナチス・ドイツでの 「V2」 とNASAアポロ計画での 「サターンロケット」 が一般にはよく知られていますが、 今回、序章を書くために調べたところ、 その間の時期、つまり1945年〜1961年の彼の活動こそ、 技術開発の系譜として書くべき事が多いように思いました。 なぜなら、どんな技術もある日突然出来上がる訳ではないからです。 とは言え、人工知能のお話から大きく逸脱してしまうので、棚上げする事にしました。 もし、この本が出版される事になれば、その際にちょこっと書き下ろすかもしれません。 あるいはロケット開発をテーマにした別の書籍を企画してもいい。 それぐらい、ロケットという技術領域は奥が深いように感じてます。

最後は「考える機械」の系譜。このトピックではまず サイバネティックス が語られることが多い。というのも今日大ブームの機械学習の起点でもありますから。 が、実際には生理学や心理学などの専門家による学際的な試みだったようですし、一般にはこのアクティビティの中心人物とされる ノーバート・ウィーナー も我々がイメージするほど指導的な立場ではなかったようです。 ともあれ、サイバネティックス研究では「思考するメカニズム」とシーズベースで考える取り組みだったようで、 人工知能のビジョンを提示するようなものではなかったように僕は感じました。 「それでは人工知能のビジョンはどこから来たのだろうか?」 という考察について書いたのが「序章 後編」で扱った「SFとAI」です。

ここでも僕はまたまた大回りしちゃったんですが(笑)最後の アイザック・アシモフ のポジトロニック・ロボット・シリーズのお話でどうにか帳尻があったというか…

ロボット工学三原則のおかげでアシモフのポジトロニック・ロボット・シリーズは深みのあるSF小説となり、 人間と「考える機械」の関わりとその問題点を当時のティーンエイジャにも非常にわかりやすく伝えられました。 これが「人工知能」への関心を育んだ事は間違いないと僕は考えています。年表を眺めると、 アシモフは1940年代〜1950年代を通して途切れる事なくポジトロニック・ロボット・シリーズの作品を発表してます。 このようなロボットを作る事を夢みた少年・少女が第1次AIブームの主役だったのではないでしょうか?

で、アシモフの2冊目の単行本「ロボットの時代」が出版された1964年あたりが、 このブームのピークに達したように見えます。翌年の1965年にはヒューバート・ドレイファスの 論文「錬金術人工知能」(”Alchemy and Artificial Intelligence")が(たぶん密かに)報告されています。 さらにその翌年の1966年には人工知能の主要命題だった機械翻訳を否定したALPACレポートが公になりました。 人工知能批判の始まりです。

そして、人工知能の開発を夢みるジョン・マッカーシやマービン・ミンスキーよりも ずっと大人だったジョゼフ・ワイゼンバウムが必要に迫られて ELIZA を作ってしまったために、 当時のこの熱狂に引きづり込まれてしまった。数年間の沈黙ののち、 ワイゼンバウムは当時のAIブームを沈黙させた書籍 Computer Power and Human Reason を出版します…

…といった展開を考えているのですが、 文献の洗い直しにもちょっと時間がかかりそうですし、 勉強会には若い世代にも来て欲しいと考えているので、 まずは彼らが関心のありそうな JavaScript 版 ELIZA の話を数回することから始めたいと考えてます。

以上

*1:もっとも、2000年以降の Google の成功以来、 国家ではない組織、端的に言えばGAFAの出現が、 ここ20年間くらいの国家による先端科学技術研究の支援を揺さぶって来たのは事実です。

今日、GDPRなど彼らの活動を規制する方向性が顕著になってきている事は皆さん良くご存知でしょう。 特に20代〜30代のGAFAの存在が大前提になっている若い方々にとっては想像が難しいかもしれませんが、 今、大きなパラダイム・シフトが起こりつつあるように僕は理解しています。

個人的にはその是非については今後の議論を待ちたいところですが、 明らかなのはやはり「先端技術はプロメテウスの火である」という事と 「その研究開発はスポンサーの立場や意向によって異なる功罪が発生する」という事かと思います。

世の中には、この「プロメテウスの火」をGAFAが掌中に収めていることが 貧富の二極化の本質的な原因であり是正する必要があると考えている人は増えてますし、 なかには社会主義による国家運営の再考を主張する人も出てきているそうですから。 これは「歴史」という視点や文脈で見ると過去に何度も起こった出来事ですよね?

告知(2)勉強会

前回の告知 から間が空いてしまいましたが…

ブログに草稿をアップするようになって9ヶ月になりましたので、 ここで現状について諸々書き残しておくことにます。

まずは、昨日ようやく「序章 後編その5」をアップしました。 さっき調べてみたら「序章 前編」を公開したのは 4/30 で半年前。 話題を『SFとAI』に切り替えて「序章 後編その1」を公開したのは 8/1 で3ヶ月前。 とにかく、まぁ散々時間を費やしてきてますが…昨日の「後編その5」を持って「序章」の執筆は一旦終了とする事にします。

実は先月某所で「確かに『SFとAI』は面白いネタだけど、本来の草稿の公開の趣旨から大幅にずれてない?」と突っ込まれまして… 内心「それ、わかっちゃいるけど、序章としてオチがつかないで悶絶中なんで…」とこっそり呟いた次第。 なので「アイザック・アシモフのおかげでなんとかオチがついた」と安堵しているところです(笑)

正直にいうと、序章では Wernher von BraunJ. C. R. Licklider について、書いておくべきだと考えているのですけども、 ここはジョン・キャンベルの…

書きだしに手こずるのは、不適当な箇所から書き始めるからなんだ。 それも、たいていは、前すぎるせいだ。 話のもっと後の個所を選んで、やり直してみたまえ。

の教えにしたがって本編へと急ごうかと思っています。

読者のみなさんがどのように受け止められているかは定かではありませんが…

ここ半年の序章の執筆は僕自身には勉強になりました。いやいや、本当に言い訳や負け惜しみでなく。

まず、1940年代にアメリカではSFブームが起こっていたことを初めて知りました。 この時代、僕らの世代は太平洋戦争真っ只中の印象が強すぎて、 「文化的なムーヴメントなんか起こりっこない」 と思い込んでいたんですね。でも、それは日本の話でアメリカはそうではなかった。 やはり国力の差というのはこういうもんなんでしょうなぁ。

さらに、このムーヴメントを牽引したのがパルプ・マガジンで、 これは明らかにサブカルチャー・ムーヴメントであること。 アシモフ自伝に登場する Futurians とかは、なんだか1970年代の Homebrew Computer Club が思い出されるので、もうちょっと掘り下げたかったのですが、またまた話が発散するのでやめました。

Lee FelsensteinCommunity Memory とかね。若者にはピンと来ない人も多いかと思いますが Apple はこのクラブから生まれた会社なんです。 アメリカはサブカルチャー・ムーヴメントが加熱し、 メイン・ストリームに流れ出す事によりパラダイム・シフトが発生してニュー・ビジネスが生まれるのですが、そこでは勝者と敗者ができる。 そのようなドラスティックな社会的な動きがアメリカの1940年代に(たぶん、それ以前にも何度も)起きていたことに僕自身は驚いてます。 おそらくアイザック・アシモフはこの1940年代のムーヴメントの申し子なんでしょうねぇ。

関連して驚いたのが、その当時のパルプ・マガジンがしっかり残っていて、今では電子化され原書がタダで読めること。 インターネット・アーカイブはどうやって集めてるのかわかりませんが、当時一番人気だった Amazing StoriesAstounding Stories あたりは数十年分が、かなりしっかり残っています。ちなみに 後編その5 で紹介した作品の原書は以下のリンクから読めます。

邦題 原題 初出 Astounding
『ロビィ』 "Robbie" 1940
『われ思う、ゆえに…』 "Reason" 1941 v27n02
『うそつき』 "Liar!" 1941 v27n03
『夜来たる』 "Nightfall" 1941 v28n01
『堂々めぐり』 "Runaround" 1942 v29n01

やはり一番目を引くのは "Nightfall" の劇中シーンが表紙になっている v28n01 ですねぇ。 ちなみに、残念ながら『ロビィ』が掲載された Super Science Stories だけは、メジャーなパルプ・マガジンではないようなので原書は見つかりませんでした。

それから…

マービン・ミンスキーが「彼は偽りの謙遜ではなく、いつも正直で、気取らず、ユーモラスだった」が評したように、 アイザック・アシモフIsaac Asimov, 1920〜1992) の人柄は彼の自伝にも溢れており、 ユダヤ系ロシア移民というややこしい立場であるにも関わらず、 タブーを恐れず率直に語る(例えば自分のことを二級市民と呼んだりする)ところに彼の誠実さを感じました。

これは僕の次回作の本来の主人公である ジョゼフ・ワイゼンバウムJoseph Weizenbaum, 1923〜2008) を理解するうえでも役に立ちそうです。

実際、彼らはどちらもユダヤ系移民で、 その幼少期の境遇に共通するところが多いのです。 二人は3歳違いのほぼ同世代で、 アシモフはロシヤ革命の影響で3歳の時にロシアから、 ワイゼンバウムはナチス・ドイツの台頭により13歳の時にドイツから、 追われるようにしてアメリカに渡りました。 移民後の生活が貧しかったことも、 にも関わらず学業が優秀で高い学歴を収めていることも共通してます。

一方、二人には非常に対照的なところもあります。 ワイゼンバウム家は敬虔なユダヤ教徒で非常に厳格であったのに対し、 アシモフ家はユダヤ教を捨て世俗化(アメリカ化)しました。 二人とも非常に博識だったのですが、 ワイゼンバウムが書き残した文章はヨーロッパの知識人のような回りくどい(故にわかりにくい)表現が多いと感じるのですが、 小説家であるアシモフの文章は率直でわかりやすい(彼が茶目っ気を出して敢えて回りくどく表現しない限りは)。 そして、おそらくワイゼンバウムであれば書き残すことはなかったであろう、 アメリカに住むユダヤ系移民が共通して感じていただろう非常に細かな、あるいはボヤッとした差別 をアシモフはユーモアを交えてあっけらかんと書き残している…『アシモフ自伝』はその背景を推測しながら読むと非常に興味深い書籍です。

コンピュータ・サイエンスとSFと分野は全く異なりますが、 結局二人とも大成して多くの尊敬を集めました。

ついでに言っておくと、二人とも自分が成功した分野だけでは飽き足らず、散々余技に明け暮れたりもしてます。 ワイゼンバウムは対話システム ELIZA を開発して世間をアッと言わせましたが、 その後は人工知能批判に転じて倫理問題を主に扱うようになりました。 アシモフは1950年代になってジョン・キャンベルと疎遠となった後は、 (化学の博士号を持ち教鞭を執る経験もあった彼にはこれが本来の仕事なのかもしれませんが)ノンフィクションの執筆に血道をあげ、 再びSF小説を書き始めるのはだいぶん後のことになってからです。

…ってことで

アイザック・アシモフを杖にジョゼフ・ワイゼンバウムを語ってみようか?などと考えてます。

もうちょっと正直にいうと、以前書いた ELIZA開発の背景は? という記事は、例の ELIZA 論文 の内容を次の文献 "Where are they, the islands of reason in cyberstream?":『彼らはどこへ?:サイバーストリームの中の理性の島』 を参考にして補強しながら書いたのです。

litwinbooks.com

その時点では、後続の記事はこの本の内容を軸にして書き進めるつもりだったのですが、 どうにも曖昧すぎるし暗すぎるような気がして…筆運びを良くするためにはまたまた少し研究が必要かもしれません。 まぁ、序章を書いている間に JavaScript 版 ELIZA の方も多少進展したので、 『Unix考古学』の連載時の例にならって実装編を何回か書きたいとも考えています。 どうやら「はてブ」からアクセスして来られる方は若い方が多いようで、 実装的な内容にしか関心を持ってもらえないようですしね。

最後に、タイトルに「告知」と書いておきながら何にも告知してないので…

今年の1月に東京でプライベートな勉強会をしましたが、 1年ぶりにまたまた勉強会を開こうかな?と考えてます。 詳細はまだ決めてませんが、多分年末よりは年始の方が可能性は高いかと。

詳細が決まったら connpass で連絡します。

以上

AI(人工知能)を予感させる架空の技術:ポジトロニック・ブレイン

〜遅ればせながら、序章めいたものを(後編その5)〜


2019/10/22
藤田昭人


古典的なSF小説にAIの片鱗を見つける試みを始めて3ヶ月が経っちゃいましたが…

AI("Artificial Intelligence", 人工知能)という用語は1956年の ダートマス会議 ("Dartmouth workshop") において初めて登場しました。この会議を実質的に企画した ジョン・マッカーシーJohn McCarthy, 1927〜2011) とその盟友 マービン・ミンスキーMarvin Minsky, 1927〜2016) が、 サイバネティックスCybernetics) に関心のある数学や情報科学の研究者を広く集め、 メイシー会議 (Macy Conferences) の再現を目論んだこと、 またそのプロモーションのためにマッカーシが『AI』というキャッチーなバズワードを捻り出したのですが、 結局その目論見はほとんど達成されず『AI』という言葉だけが独り歩きを始めたことは 既に紹介しています *1

この回を書き上げた際、僕にはふと 「マッカーシやミンスキーは『サイバネティックス』の議論から『AI』という概念を思いついたのだろうか?」 などという疑問が思い浮かべました。 そもそもマッカーシやミンスキーはウィーナーやフォン・ノイマンとは世代的にかけ離れていた印象を持っていたからです。

サイバネティックス』はウィーナーの著作が出版された1948年前後の数年間が最も活発だった時期だったそうです。 その活動の舞台であったメイシー会議は学術的に実績のある研究者を招待する会議だったそうで、 当時は20歳前後(おそらく学生か院生だったはず)のマッカーシーミンスキーにとって 『サイバネティックス』のムーブメントは雲の上の話だったのではないか?と僕は想像しています。 例えばフォン・ノイマンのように、彼らが『サイバネティックス』に入れ込んだ事はなかったように思えてなりません。

では、彼らの『知的な機械』への強い好奇心を育んだのはなんだったのでしょうか?共に1927年生まれの彼らは、前回 (後編その4) 紹介したパルプ・マガジンを中心に起こったSFブーム、 ちょうどジョン・キャンベルがその権勢振るい始めた1940年あたりには ハイスクールに通っていたドンピシャとハマる世代だったわけで 「ひょっとしたらパルプ・マガジンのSF小説にこそ彼らの『知的な機械』の原体験があったのではないか?」 などと僕は考えるようになりました。

本稿では僕の人工知能SF起源仮説(笑)を交えて諸々紹介したいと思います。


アイザック・アシモフと『われはロボット』

1940年というとアメリカンSFの黎明期の時代です。 アメリカンSFにおける『知的機械』と言えば アイザック・アシモフIsaac Asimov, 1920〜1992) のロボット小説から始まったと言っても過言ではないでしょう*2

アシモフは1940年に短編小説 "Robbie" を発表しています。 (この作品が最初にパルプ・マガジンに掲載された際には “Strange Playfellow”「変った遊び仲間」というタイトルが付けられていましたが) Wikipedia によれば、この小説のあらすじは次のとおりです。

1982年、ウェストン家は娘グロリアの乳母がわりに『ロビー』というニックネームの無声のRBシリーズ・ロボットを所有していた。 グロリアの母親は地元の資産家のお嬢様であり、その意見は周囲の人々によって二転三転するような人であった。 ロボットの所有が最新の流行であったときには、彼女はロビーを所有することで脚光を浴びた。 しかし(宗教的な狂信と労働組合の運動が重なって)反ロボットの世論が瞬く間に世界中で高まると共に、 ウェストン夫人は突然、ロボットの乳母が彼女の娘に与える影響を心配するようになった。 グロリアが他の子供たちよりもロビーと遊ぶことに興味があり、適切な社会的スキルを学ばないことを危惧したからである。 ロビーを購入して2年後、ウェストン氏は妻の小言に屈し、ロビーを工場に戻した。

グロリアは、自分の親友だと思っていたロビーに、とても愛着を感じていたので、微笑んだり、笑ったり、人生を楽しんだりすることをやめた。 ロビーの代わりに犬を買ってくれる両親の継続的な努力にもかかわらず、彼女は心変わりすることを拒否し、彼女の気分は次第に悪くなっていった。 「いつもロビーと一緒に遊んでいた場所に囲まれていては、彼女がロビーを忘れることは不可能だ」と考えた彼女の母親は、 彼女に忘れさせるために、風景の変化が必要だと判断する。 ウェストン夫人は彼らをニューヨークに連れて行くように夫を説得する。 しかし、残念なことにこの計画は裏目に出る。 グロリアは、ロビーを探しに(ニューヨークに)行き、その仕事のために私立探偵を雇うつもりだと思い込んだからだ。

考えられるあらゆる観光名所に娘を連れて行った後、もう何も思いつかなくなってしまったウェストン氏は 「グロリアがロビーを忘れられなかったのは、彼女がロボットではなく人間だと思っていたからで、 もし彼女をロボット建設工場に連れて行ったら、彼が金属と電気以外の何ものでもないことがわかるだろう」 と考え、妻を説得した。感銘を受けたウェストン夫人は、U.S.Robots and Mechanical Men,Inc.の企業施設見学に同意した。 見学では、ロボットが他のロボットを組み立てる工場の特定の部屋を見せてほしいとウェストン氏は申し出た。 その部屋は、グロリアとウェストン夫人にとって驚きだった。ロボット組立工の1人がロビーだったからだ。 グロリアは友達に会いたくて車の前を走り出し、ロビーに助けられる。ウェストン夫妻は向き合った。 すべては夫が仕組んでいたことだった。ロビーは産業用ロボットではなく、その部屋でやるべき仕事はなかった。 もしロビーとグロリアをもう一度ひき会わせたら、ウェストン夫人はもう彼らを引き離す方法がないことが、 ウェストン氏にはわかっていた。ロビーがグロリアの命を救ったのは予定外だったが。 結局、ウェストン夫人はロビーが魂のない怪物ではないかもしれないということに同意し、降参した。

いかがでしょうか?この「人間とロボットのヒューマニティ溢れる触れ合い」を語った筋書きは アシモフのロボット小説に共通する、彼のロボットへの考え方が反映されたものなんだそうです *3

その後、この小説を皮切りにパルプ・マガジン向けに幾つものロボット短編小説を書いて、 アシモフは人気SF作家に登りつめました。 1950年には彼の最初の短編集 『われはロボット』 ("I, Robot", 1950) が出版されています。採録された(パルプ・マガジン時代の)短編小説は以下のとおりです。

邦題 原題 初出
『ロビィ』 "Robbie" 1940
『堂々めぐり』 "Runaround" 1942
『われ思う、ゆえに…』 "Reason" 1941
『野うさぎを追って』 "Catch that Rabbit" 1944
『うそつき』 "Liar!" 1941
『迷子のロボット』 "Little Lost Robot" 1947
『逃避』 "Escape!" 1945
『証拠』 "Evidence" 1946
『災厄のとき』 "The Evitable Conflict" 1950

表の「初出」の項目を見てもらうと、この単行本がアシモフの1940年代の執筆活動の集大成のひとつである事がよくわかります。 もちろん古典的なSFの名作ですので、今日でもハヤカワから文庫本が出版されているので比較的容易に入手できます。

www.hayakawa-online.co.jp

実はこの短編集、ちょっと趣向が凝らされていまして、 収録された9編の小説が単純に並べられた訳ではなく、 「U.S.Robots and Mechanical Men,Inc. に所属する引退目前のロボ心理学者の スーザン・キャルヴィン博士やフィールド・テスト・チームのグレゴリィ・パウエルと マイケル・ドノヴァンの回想」という体裁でまとめられ、 個々の小説はこの新たな追加設定を受け入れるために 小さな書き直しがほどされました。


ポジトロニック・ブレインとロボット工学三原則

3人の登場人物の他に全編を通して登場するのが 「陽電子頭脳」 =「ポジトロニック・ブレイン」 です。小説上の設定では「U.S.Robots 社の創業者、ローレンス・ロバートスンが発明した」とされているこの架空の技術と キャルヴィン博士の関係を『われはロボット』の序章で次のように説明しています。

二十世紀中葉の<電子計算機>のめざましい進歩も、 ロバートスンとその陽電子頭脳回路によってすべてくつがえされた。 何マイルにもおよぶリレーや光電管は、 人間の脳髄ほどの大きさのスポンジ状プラチナイリジウムの合金に道をゆずった。 彼女は、<陽電子頭脳>における未定数を決定するのに必要なパラメーターを計算することを学んだ、 あたえられた刺激に対する反応が正確に予測できる<頭脳>をノートの上に作りだすために。

(彼女は) 二〇〇八年、博士号を取得すると、 <ロボ心理学者>として U.S.Robots and Mechanical Men,Inc. に入社し、 新しいサイエンスの最初の偉大な専従者となった。

(おそらく1950年当時に書かれた)この文章に登場する「二〇〇八年」が過ぎ去って10年あまり経った現在でも、 リアルにはまだポジトロニック・ブレインに相当するデバイスは開発されていません。 が、そのチューニングを職業とする「ロボ心理学者」の出現を予言しているあたりは、 ディープ・ラーニングが2006年に登場し、以降、機械学習やデータ・サイエンスに傾倒し続けている リアルな現実と符合して、妙な現実感に感じてしまいます。

また『堂々めぐり』("Runaround”) *4 では登場人物であるドノヴァンとパウエルのやり取りから ロボット工学三原則がポジトロニック・ブレインとは不可分な対であることがうかがい知れます。 アシモフの多くのロボット小説では、登場するロボットのポジトロニック・ブレインに内蔵された ロボット工学三原則Three Laws of Robotics) の相互矛盾が引き起こすトラブルにより人間が振り回されるストーリーが、 共通するテーマとなっています。「アシモフといえばロボット工学三原則」というように、 この相互に矛盾する奇妙な原則は彼が執筆した数多くの小説よりも有名になり、 (アシモフの小説とは無関係に)原則だけが一人歩きしてしまう事も多いようです。 一方、その対であるはずの「ポジトロニック・ブレイン」はあまり人々の記憶には残っていないように思います。 やはりアシモフの小説でも解説が少ないせいか「内部構造に謎の多い架空の技術」だったからなんでしょうかね?


ポジトロニック・ブレインとロボット工学三原則の舞台裏

後編その2 で紹介したSF小説の作法という観点から見れば、 「ロボット工学三原則」という架空のルールは ポー・ヴェルヌの作法ともウェルズの作法とも異なる アシモフ独自の画期的な発明であったことは明らかです。 三原則はいずれもロボットの人間との関係を規定した基本的なルールですが、 その背景には、人間が暮らすさまざまな日常にロボットが存在する状況、 さらに人間とロボットの間に何らかの関わりがある事が暗黙のうちに設定されています。 このような設定を持ったSF小説はそれまでにはあまり存在しなかったのではないでしょうか? 19世紀の科学技術は概して富豪の持ち物であり、 その時代のSFはともすれば社会を資本家と労働者に二分化する世相を反映した内容が多かったのに対し、 20世紀の科学技術はその成果が一般大衆の手の届くところまで広がり、 その能力や利便性、功罪などを人々が具体的に認識できるようになりました。 新世代のSF作家であったアシモフは彼のロボット・シリーズの作品群で 彼自身が認識する(未来を含めた)社会の中でのリアルを追求したのでしょうが、 結果的にこういった世紀を跨いだ社会の変化をいち早く取り入れた事例と言えるかもしれません。 今日ではむしろアシモフのアプローチがSFの主流になっているような気がします。

この画期的な原則をアシモフはどのようにして思いついたのでしょうか? 素敵な事に、アシモフ自身がこの疑問の答えを 自伝 の中で語っています。

www.biblio.com

"In Memory Yet Green: The Autobiography of Isaac Asimov, 1920–1954" (Doubleday, 1979) は幼少期からSF作家として独り立ちするまでを語っています *5。 もうひとつ、アシモフは三原則を発案した動機は 『ロボットの時代』 ("The Rest of the Robots", 1964) の序文でも述べています *6

www.hayakawa-online.co.jp

この本は、今でもハヤカワから翻訳の文庫本が出版されているので比較的容易に入手できます。

邦題 原題 初出
第1章 ロボット登場 The Coming of the Robots
『AL76号失踪す』 "Robot AL-76 Goes Astray" 1942
『思わざる勝利』 "Victory Unintentional" 1942
第2章 ロボット工学の諸原則 The Laws of Robotics
『第一条』 "First Law" 1956
『みんな集まれ』 "Let's Get Together" 1957
第3章 スーザン・キャルヴィン Susan Calvin
『お気に召すことうけあい』 "Satisfaction Guaranteed" 1951
『危険』 "Risk" 1955
『レニイ』 "Lenny" 1958
『校正』 "Galley Slave" 1957

本書は原題タイトルを見ればわかるように『われはロボット』に採録されなかったロボット小説を集めて単行本化したものでした。 各章毎に章題となっているテーマに沿った作品が集められています。 しかし、短編集の各作品の間に書き下ろしの文章を挟み込んで行くのがアシモフは好きだったのでしょうか? 『われはロボット』の書き下ろしとは異なり、 本書では彼が書いたロボット・シリーズの舞台裏に関するエピソードを幾つも披露しており、 書き下ろしだけを纏めたら1つのエッセイ本になるような面白い内容が綴られています。

* 発端:フランケンシュタイン・コンプレックス

『ロボットの時代』の序文によれば、アシモフにとって フランケンシュタイン・コンプレックスFrankenstein Complex) とは「最終的に人造人間(ロボット)は創造主(開発者)を殺す」という メアリー・シェリーが考え出したストーリーにその後の多くのSF作家も盲目的に追従し、 それがロボットもののストーリーとして長く定着してきたことを意味していました。 「何百回となくくりかえされるこの陳腐な筋書きにほとほと嫌気がさした」 アシモフは次のように思索の末に決心したと語っています。

one of the stock plots of science fiction was ... robots were created and destroyed their creator. Knowledge has its dangers, yes, but is the response to be a retreat from knowledge? Or is knowledge to be used as itself a barrier to the dangers it brings? ... a robot would not turn stupidly on his creator for no purpose but to demonstrate, for one more weary time, the crime and punishment of Faust.

SFの主なプロットのひとつは … ロボットが作られ、創造主を破滅させる。 知識はたしかにそれ自体危険をはらむ、しかし危険に対する反応が知識からの後退であってよいものだろうか? われわれは猿に還り、人間の精髄を失おうとしているのか? それとも知識はそれがもたらす危険をふせぐ防壁として用いられているのだろうか? … (わたしの)ロボットは創造主にむやみに反抗したり、ファウスト罪と罰を具現して見せるような退屈な行為は、決してしない。

もっとも小説家であった彼は、哲学者のように何十年にも渡る長い思索の上にこの結論に至った…わけではなかったようです。 実は、とある短編小説の登場に激しくインスパイアされたとか。Wikipedia にはその経緯について次の説明があります。

On May 3, 1939, Asimov attended a meeting of the Queens (New York) Science Fiction Society where he met Earl and Otto Binder who had recently published a short story "I, Robot" featuring a sympathetic robot named Adam Link who was misunderstood and motivated by love and honor. (This was the first of a series of ten stories) the next year "Adam Link's Vengeance" (1940) featured Adam thinking "A robot must never kill a human, of his own free will.") Asimov admired the story. Three days later Asimov began writing "my own story of a sympathetic and noble robot", his 14th story.

1939年5月3日、アシモフは(ニューヨーク州の)クイーンズSF協会の会合に出席し、アールとオットーのバインダー兄弟に会った。 彼らは最近、誤解され、愛と名誉によって動機づけられる Adam Link という思いやりのあるロボットが登場する短編小説 "I, Robot" を発表したのだ。(これは、10の物語からなるシリーズの第1作だった) 翌年に発表された "Adam Link's Vengeance”(1940)では、アダムは「ロボットは自分の意志で人間を殺してはならない」と考えていた。 アシモフはその話に感嘆した。三日後、アシモフは「思いやりのある高貴なロボットの自伝」を書き始めた。

バインダー兄弟は イアンド・バインダーEando Binder*7 と言うペンネームで作品を発表しています。 この Adam Link の物語に触発されて、アシモフが一気に書き下ろしたのが "Robbie" だったのですね。でもこの段階では三原則といったガッチリした構想ではなく、 単に「フランケンシュタイン・コンプレックスから逃れる方策」でしかなかったようです。

* ロボット小説への傾倒

アシモフが "Robbie" を書き上げたのは1939年。まずは 「アスタウンディング・サイエンス・フィクション」 (Astounding Science Fiction) の ジョン・W・キャンベルJohn W. Campbell, 1910〜1971) ところに持ち込みました。 ですが、キャンベルはアシモフ初のロボット小説をキャンベルはボツにしました。 その理由は、その半年ほど前に レスター・デル・リーLester del Rey, 1915〜1993) の短編小説 「愛しのヘレン」 ("Helen O'Loy", 1938) をアスタウンディングに掲載したばかりで、 アシモフが持ち込んだ新作はそれと内容が酷似していると指摘されたからでした *8

結局、この作品は翌年、アシモフの友人であり、一時期は彼のエージェント(作者に変わって作品を出版社に売り込みに行く代理人)を勤めていた フレデリック・ポールFrederik Pohl, 1919〜2013) が編集長を勤めていたパルプ・マガジンの 「スーパー・サイエンス・ストーリー」 (Super Science Stories ) の1940年9月号に掲載されました *9アシモフは "Robbie" の掲載について次のように語っています。

雑誌に出て活字になった「ロビィ」を読んだ私は、それまでに書いたどの小説よりも自分の好みにあっていると判断した。 (中略) では、もっとこれを書けばいいじゃないか?

キャンベルには評価されなかったものの、アシモフは自分なりの手応えを感じていたようです。

* ジョン・キャンベルとの議論

もっとも、ロボット小説を洗練させていくために、アシモフにはキャンベルの助力が必要でした。

アシモフとキャンベルとの関係は、1938年にキャンベルがパルプ・マガジン 「アスタウンディング・サイエンス・フィクション」 (Astounding Science Fiction) の編集長に就任したあたりに始まります。その時自作を持ち込んでキャンベルの評価を受けています。 当時、アシモフはまだ19歳。飛び級で大学の学部課程を修了する見通しでしたが 「私の取り柄といえば『頭がいい』ことだけだったが、それでは充分でなかったのだ」 と自嘲するくらい世間知らずでした。 アシモフには珍しいこの大胆な行動も彼の父親のアドバイスによるものだとか。以来、前回 (後編その4) も紹介したような、キャンベルとアシモフの師弟関係のような友人関係が始まったそうです。

当初のアシモフの予想に反して、キャンベルのアシモフへの態度は当初から懇切丁寧なものでした。 19歳のアシモフにSF作家としての資質を見抜いていただけなく、その熱意を評価していたからでした。 もちろん、出版にコストをかけられないパルプ・マガジンでは 作家の持ち込みから掲載作品を選ぶ方法が一般的だったそうですが、 各誌のカラーにあった優れた作品を重複なく選択することが重要でありました。 ですから1930年代に最も高く評価されていたSF作家のひとりであったキャンベルがこの任に最適であったことは言うまでもありません。 キャンベルは持ち込まれた作品を熟読して掲載作品を慎重に選んだだけでなく、 彼が見込みがあると踏んだ作家(かなりたくさんいたそうですが)に対しては、 ボツになった作品にも丁寧にコメントして作家の育成に心がけました。 それが、ロバート・ハイラインやアーサー・クラークなど SF黄金世代の新人作家の発掘に繋がったのですが、なかでもアシモフは最年少、 「キャンベルの秘蔵っ子」といった扱いを受けていたのでした。

例えば、ロボット小説の次回作ついて、アシモフはキャンベルに次のように持ちかけています。

私のアイデアは、 あるロボットが、自分が工場で機械として製造されたことを信じず、 人間は自分の召使いにすぎないのであって、ロボットこそがある絶対者によって作られた最高の創造物なのだと主張する、というものだった。 しかも、彼は自分の主張を理性によって証明するのであって、小説の表題は「われ思う、ゆえに…」("Reason")だった。

このアイデアをキャンベルに話すと、彼は(思ったとおりに)たちまち夢中になった。 二人でこれを論じあい、それから家に帰って書き始めた。 私がドアを出ようとしたときの彼の最後の言葉は、「忘れるなよ、私はその小説が読みたいんだ」だった。

評価基準が厳しいキャンベルから珍しく期待の言葉を引き出したアシモフは、 すぐさま執筆に取り掛かったのですが…

翌週のうちに、四回書きだしたが、どれも数ページで諦めてしまった。 ふつうならこの種の困難がおこったときには、アイデアが自分の手に負えない証拠だと取って、やめてしまうのだった。 その当時には、私の筆を嫌う小説がいくつかあり、嫌われた気配を感じたとたんに、その小説は放棄していた。

とは言え、どうあってもキャンベルを落胆させたくなかったアシモフは、筆が進まないことを正直に告白しました。すると…

彼はじっと聞いていて、それから莫大な黄金に匹敵する例の助言を、一つくれたのである。 彼がいったことは、こうだった。 「アシモフ、小説の書きだしに手こずるのは、不適当な箇所から書き始めるからなんだ。 それも、たいていは、前すぎるせいだ。 話のもっと後の個所を選んで、やり直してみたまえ」

なんとキャンベルは自らの作家体験に基づき作文のイロハをアドバイスしました。

私にとって、これは正しい助言だった。 筋の後の方から書きはじめてみると、それからは問題はおこらなかった。 その後は、いつもできるかぎり後の個所から小説を書き始め、それでもうまくいかない場合には、もっと後から書き始めることにしてきた。 では、書き出しの前にくる部分は、どうなるのか? 会話の中でも説明できるし、 必要ならフラッシュバックにしてもいいのだ。

このようにしてアシモフはキャンベルから小説家の技を学び取って行ったのですね。 さらに完成した作品を渡した際、アシモフはキャンベルからそれまでにはない破格の待遇で受けたのでした。

1940年11月18日に「われ思う、ゆえに…」をキャンベルに渡すと、彼は即座に採用した。 というのは、11月22日に、67ドルの小切手が(郵送で)届いたのである。

それはキャンベルが買った3つ目の作品であり、改稿を求めずに採用したのは、これが初めてだった。 それどころか、後から聞いたところでは、この作品が非常に気に入ったので、よほど割増金を払おうかと思ったくらいだった。

まだ学生だったアシモフとキャンベルとのこのやり取りは 「まるで大学の研究室での馬の合う指導教官と学生の会話のようだ」 というのが僕の感想です。

アシモフは、指導者としてのキャンベルについて次のように語っています。

私自身は文学上の助言をしたことは一度もない。 理由は簡単で、作家にはそれぞれ違った技法があり、ある作家にうまくゆくものも、他の者には適さないかもしれないからである。 幸い、キャンベルの助言は、いつでも私の手法にまさにぴったりだった。 それが彼の才能だったのである。 私には絶対にない才能だ。

アシモフは、キャンベルのSFの世界での先達としての経験を踏まえた冷静で論理的な分析を大変評価していましたし、 それを自作の小説のために惜しげも無く提供してくれることに深く感謝していたようです。

ですが、それは彼がポジトロニック・ロボット・シリーズと呼ぶ作品群の場合だけのようです。

SF作家として台頭し始めた1941年のアシモフは、この時期に短編を中心にSF小説を量産していますが、 その中での一番人気は(ロボットが主題ではない) 「夜来たる」 ("Nightfall)") でした。後年「SF史上最高の短編」と評され、アシモフを一躍人気SF作家に押し上げたこの作品について、 本人自身はこの評価に同意していない事を自伝で語っています。 というのも、この作品の中核となる「1000年に一度やってくる夜」というアイデアはキャンベルから(半ば強引に)提示されたものだったようです。 「かりに人間が1000年の間に初めて星を見ることになったら、人びとは発狂すると思うよ。さあ、家へ帰って小説を書くんだ」 とキャンベルに急かされて執筆にかかったアシモフは「アイデアは素晴らしい」と思っていたけど、 何か釈然としない気分になっていたことが自伝から読み取れます。 アシモフには珍しく、この作品には素直になれなかったのでしょう。

* ロボット工学三原則の発案とポジトロニック・ロボット・シリーズの確立

1941年といえば、アシモフは 「われ思う、ゆえに…」("Reason") の他にもう1つのロボット小説 「うそつき」("Liar!") を発表しています。その経緯をアシモフは自伝において次のように語っています。

今度書こうと思っていたのは、流れ作業のどこかの間違いによって、あるロボットが人間の心を読めるようになる、というものだった。

これが「うそつき」の最初のアイデア。 当時のアシモフは、何か作品のアイデアを思いつくたびにキャンベルに持ちかけて、 プロットを構成するための要点を一緒に吟味していたようです。 アシモフはキャンベルの関心を引くことができるか?否か?で自分のアイデアの良し悪しを判定していました。 これは実にうまいやり方です。 アシモフにとって(自分のアイデアを受け入れてくれた場合には)キャンベルは理想的なレビュアーだったように思います *10

今度もキャンベルは興味を示し、我々はこのアイデアを詳細に検討した。 ロボットがテレパシーを持つとどんな事態がひきおこされるか、ロボットにどんな嘘をつかせられるか、事態はどうやって収拾できるか、等々。

その途中でキャンベルがいった。

「いいかね、アシモフ、この話を組み立てていく場合に、ロボットが従うべき3つの規則があることを頭に入れておく必要があるぞ。
第1に、ロボットは人間にいかなる危害も加えられない。
第2に、ロボットは危害をひきおこすことなく命令に従わねばならない。
第3に、ロボットは危害をひきおこしたり命令に反したりすることなしに、自分の身を守らねばならない。
そこでだ……」

なんと「ロボット工学三原則」はアシモフの「うそつき」のアイデアに対するキャンベルの論点整理から生まれたそうです。 アシモフは次のように続けています。

三原則はジョン・キャンベルの発案であって、その名誉が私に与えられるのを耳にするたびに、いつもおもはゆい気がしてならない。 しかし、とうのキャンベルに向かって彼こそ創始者だといおうとすると、彼はいつもくびを振って、にやにやしながらいうのだった。 「違うよ、アシモフ、私は君の作品や君の議論の中から、あれを拾いあげたんだ。君は明確な形で述べてはいなかったが、それでもその中にあったのさ」

「ロビィ」の中にさえ、第一条のような意味あいの言葉が出てくることは事実である。 だが、キャンベルは、いつもどおりのことをやっていただけだと思う -- 作家にすべての名誉を帰することを。

あるいはことによると、われわれはどちらも正しかったのかもしれない。 ずっと後になって ランドル・ギャレットRandall Garrett, 1927〜1987) がいったように、われわれは特異な共生関係の結果として、三原則を二人で作りあげたのかもしれない。

さらにキャンベルの貢献は三原則に止まりません。

さらに重要な出来事は、1941年3月20日に「われ思う、ゆえに…」を載せたアスタウンディングの1941年4月号が、 そして1ヶ月後には「うそつき」を載せた1941年5月号が出たことだった。 キャンベルがこれを意識的にやったのかどうかは知らないが、2つのロボット小説が手を携えて登場したことは、シリーズを確立するうえに役立った。

これがアシモフの「ロボット工学三原則」に基づくポジトロニック・ロボット・シリーズの始まりだったようです。 ちなみにシリーズの最初の3作である「ロビィ」にまで遡って「われ思う、ゆえに…」「うそつき」が アシモフ自身の自信作であったことは、自伝の次のくだりからよくわかります。

活字になったか否かを問わず、売れたか否かを問わず、(それまで書いた)31編の小説のうち、 例のゼロから5つ星までの尺度に照らして、当時の私が3つ星以上と考えていたものは3編だけであり、 それは3つの陽電子ロボット小説、「ロビィ」、「われ思う、ゆえに…」、「うそつき」だった。

その夜(1941年3月18日)における私の地位は、堅実で(たぶん)将来性のある三流作家以上のものではなかった。 そればかりか、当時は私自身が、自分をそれだけのものと思っていたのである。 また、私の知るかぎりで、1941年初頭に、 私のことをSFの天界における未来の一等星などと本気で思うものは誰もいなかった -- たぶんキャンベルを除いては。 黄金時代は今や最高潮にあり、そこにはすでにハインラインやヴァン・ヴォクトといった明るい星たち、 ハバード・ディ・キャンプ、デル・レイ、スタージョンといった、それにくらべてほとんど遜色のない生が含まれていた。 私がいつか彼らと肩を並べるようになろうと、いったい誰が考えただろう -- たぶんキャンベルを除いては。

実はこのくだり、自伝の、前述の「夜来たる」の執筆に着手したときを回想したところで登場します。 「夜来たる」の発表(アスタウンディング1941年9月号)がアシモフのその後をそれまでとは全く違うものにしたことがよくわかる記述です。 この作品が、その後の「未来史」を語ったアシモフのもう一つの著名な作品群である「ファウンデーション・シリーズ」へと繋がります。

でも、アシモフ自身のお気に入りは「ポジトロニック・ロボット・シリーズ」だったようです。 それは「ファウンデーション」の2作目の執筆している最中に、 浮気するかのように「ポジトロニック・ロボット」の4作目を書き始めたことからもわかります。

だが、ファウンデーション・シリーズ第二作では、引き続き自分を困難に追いこんでいた。 自信過剰のために、すぐ書き始めることさえしていなかったのである。 それどころか、これを書くのに使える時間の余裕を平然と切り詰め、 その間に、気分を変えて陽電子ロボットものをもうひとつ書くことに決めたのだった。

これが「堂々めぐり」(Runaround)であり、何度か書きだしを失敗してから、1941年10月4日に書きはじめたものだった。 この中では、主人公たちがロボットを水星で働かせようとするのだが、環境条件がロボットの調子をいらだたしいほど狂わすのである。 この小説は、ロボット工学の三原則をすべて明白に述べると同時に、その相互作用に筋の中心を置いた、最初のものだった。 これを書くには2週間で充分だった。これを10月20日にキャンベルに渡すと、彼はその日のうちに読んで、小切手の支払いを命じた。 23日には、郵便で72ドルが届いたのである。

とうとうキャンベルの基準に達したことは、間違いなかった。 これは私がアスタンディングにもちこんで採用された、連続六作目の小説だった。

「堂々めぐり」はアスタウンディング1942年3月号に掲載されました。 スーザン・キャルヴィン博士やフィールド・テスト・チームのグレゴリィ・パウエルと マイケル・ドノヴァンといったおなじみのキャラクターに加え、 ロボット工学三原則も明示的に語られ、この作品によりアシモフのポジトロニック・ロボット・シリーズは確立したと僕は思います。

* ロボット工学三原則とは?

「堂々めぐり」の発表後、アシモフはSFの文壇からしばらく離れます。理由は第2次世界大戦です。 1942年(昭和17年)アメリカはヨーロッパでも太平洋でも戦争をしていました。 コロンビア大学の大学院に通っていた22歳のアシモフには徴兵の可能性がありました。が、前回 (後編その4) の脚注で紹介したようにフィラデルフィア海軍工廠に雇用され、徴兵は免れました。 元海軍士官だったハインラインにより、彼や他のSF作家仲間と共に勤務することになったのです *11

アシモフは(1979年に出版された)自伝において「ロボット工学三原則」について次のように語っています。

ことによると、私は、自分が書いたどんなものよりも、この三原則によって有名かもしれないし、これはSFの世界の外でさえ引用されている。

(そもそも)"ロボット工学"(ロボティックス)という単語そのものが、私の造語なのである。 このことは、ずっと後まで知らなかった。 というのは、"robotics" という単語を最初に使ったとき、この単語は科学者が実際にこういう文脈で使っているものとばかり思っていたのである。 なにしろこの単語は、 "physics"(物理学)、"hydraulics"(水力学)、"mechanics"(力学)、"statics"(静力学)、その他、物理学的科学の部門の名称として使われる。 こういう語形の様々な単語と同じ形をしている。

彼が「堂々めぐり」を発表した頃、"Robotics" という用語を考えつきそうな工学研究者は皆、軍に協力して秘密の研究に従事していました。 なので、後に化学の博士号を取得するであろう大学院生にこの大役が回って来たのでした。 今日、ロボット工学や人工知能の歴史を紐解くと、アシモフの名前を目にするのはこういった事情によります。 しかし「"Robotics" という用語が初めて登場したのは小難しい論文ではなくSF小説だった」という事実はちょっとロマンのある話ではありませんか?

おわりに:ポジトロニック・ブレインとは?

またまた本稿もずいぶん長い文章になってしまいましたが…ここまで読んでいただいてありがとうございます。

最後に本稿のタイトルである「ポジトロニック・ブレイン」の話題に戻りましょう。 Wikipedia 英語版の "Positronic Brain" のページでは、次のように解説されています。

A positronic brain is a fictional technological device, originally conceived by science fiction writer Isaac Asimov. It functions as a central processing unit (CPU) for robots, and, in some unspecified way, provides them with a form of consciousness recognizable to humans. When Asimov wrote his first robot stories in 1939 and 1940, the positron was a newly discovered particle, and so the buzz word positronic added a contemporary gloss of popular science to the concept. The short story "Runaround", by Asimov, elaborates on the concept, in the context of his fictional Three Laws of Robotics.

Asimov remained vague about the technical details of positronic brains except to assert that their substructure was formed from an alloy of platinum and iridium. They were said to be vulnerable to radiation and apparently involve a type of volatile memory (since robots in storage required a power source keeping their brains "alive"). The focus of Asimov's stories was directed more towards the software of robots — such as the Three Laws of Robotics — than the hardware in which it was implemented, although it is stated in his stories that to create a positronic brain without the Three Laws, it would have been necessary to spend years redesigning the fundamental approach towards the brain itself.

Within his stories of robotics on Earth and their development by U.S. Robots, Asimov's positronic brain is less of a plot device and more of a technological item worthy of study.

A positronic brain cannot ordinarily be built without incorporating the Three Laws; any modification thereof would drastically modify robot behavior. Behavioral dilemmas resulting from conflicting potentials set by inexperienced and/or malicious users of the robot for the Three Laws make up the bulk of Asimov's stories concerning robots. They are resolved by applying the science of logic and psychology together with mathematics, the supreme solution finder being Dr. Susan Calvin, Chief Robopsychologist of U.S. Robots.

ポジトロニック・ブレインは、SF作家のアイザック・アシモフが考案した架空の技術デバイスである。 ロボットの中央演算処理装置(CPU)として機能し、人間が認識できる意識の形を提供する。 アシモフが1939年から1940年にかけて最初のロボット小説を書いたとき、 ポジトロン陽電子)は新たに発見された粒子であったため、ポジトロニクスというバズワードが、この概念に一般的な科学のモダンな輝きを加えた。 アシモフの短編小説『堂々めぐり』(”Runaround”)では、彼の架空のロボット工学三原則の文脈の中で、その概念を詳述している。

アシモフは、ポジトロニック・ブレインの技術的な詳細について、その下部構造がプラチナとイリジウムの合金からできていると説明する以外はあいまいなままだった。 放射線に弱いと言われており、明らかに一種の揮発性記憶物質を含んでいる(ロボットの記憶装置には、脳を「生かす」ための電源が必要だからだ)。 アシモフの物語の焦点は、それが実装されたハードウェア側面よりもロボット工学三原則のようなロボットのソフトウェア側面に向けられていたが、 彼の物語では、三原則なしにポジトロニック・ブレインを作るためには、脳そのものに対する基本的なアプローチを再設計するのに何年も費やす必要があると述べられていた。

地球あるいは U.S. Robots 社の開発でのロボット工学の話では、 アシモフのポジトロニック・ブレインは実験装置というよりは、研究価値のある技術要素のようなものである。

ポジトロニック・ブレインは、通常、ロボットの行動を劇的に変えることになる、三原則を組み入れなければ構築できない。 ロボットに関するアシモフの物語の大部分(ポジトロニック・ブレイン・シリーズ)は、 三原則のためにロボットの経験不足や悪意のあるユーザによって設定された相反する潜在的な可能性から生じる行動上のジレンマを語ったものである。 それは論理学と心理学を数学を動員することによって解決される。 その最も優れた解決策を発見したのは、U.S.Robots の首席ロボット心理学者であるスーザン・キャルヴィン博士である。

もっとも、アシモフ自身は自伝で「ポジトロニック・ブレイン」について次のように語っています。

これは一般に "ポジトロニック・ロボット" シリーズと呼ばれた。 というのは、頭脳を流れる電流が、電子ではなくて陽電子の流れだったからである。 これは単に頭脳に未来技術の一部という感じを与えるためのものだった。 だが、一部のあまり教養のない読者は、これが確実な科学に基づいていると思って、その原理についてもっと情報を与えるように求めたのである。

なんだか身も蓋もないコメントですが…まぁ書き手の意識とは読者とは全く異なるところに存在するものですから*12(笑)。

最後に、アシモフ自身よりもずっと真面目にポジトロニック・ブレインに向き合った人のコメントを紹介します。 1992年4月12日、アシモフが亡くなった6日後にニューヨークタイムズに追悼記事が掲載されました。 彼は次のようなコメントを寄せています。

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アシモフの追悼記事(ニューヨークタイムズ

"Technology; A Celebration of Isaac Asimov" By John Markoff April 12, 1992

Marvin Minsky Artificial-intelligence pioneer; computer science professor, M.I.T.

I first encountered Asimov's ideas some 50 years ago. I was just beginning my teens and he was only in his early 30's, yet he seemed centuries ahead. I was entranced by his stories about space and time, but the ideas about robots affected me most.

After "Runaround" appeared in the March 1942 issue of Astounding, I never stopped thinking about how minds might work. Surely we'd someday build robots that think. But how would they think and about what? Surely logic might work for some purposes, but not for others. And how to build robots with common sense, intuition, consciousness and emotion? How, for that matter, do brains do those things?

Isaac Asimov always encouraged his readers to try to see the world as comprehensible, to despise superstition and moral cowardice, and to think and speak clearly and simply. He was not falsely modest, but was always honest, unpretentious and humorous. To me he was among the finest of modern philosophers.

人工知能の先駆者:マービン・ミンスキー、M.I.Tコンピュータサイエンス教授

私がアシモフのアイデアに出会ったのは約50年前のことです。 私はまだ十代を始めたばかりで、彼はまだ30歳代前半でしたが、彼は何世紀も先にいるようでした。 私は彼の時空に関する話にうっとりしましたが、ロボットについての考えに一番影響をうけました。

「堂々めぐり」がアスタウンディング誌の1942年3月号に掲載されて以来、私は心の働きについて考えることをやめなかったのです。 私たちはいつの日か考えるロボットを作るでしょう。しかし、彼らは何についてどのように考えるのでしょうか? 確かに、ロジックはある目的には有効かもしれませんが、他の目的には無効かもしれません。 常識、直感、意識、感情を持ったロボットを作るには? 脳はどうやってそんなことをするのでしょう?

アイザック・アシモフは、世界を理解できるものとしてみて、 迷信や道義的な臆病さを軽蔑し、明確かつ簡潔に考え、話すよう読者にいつも勧めていました。 彼は偽りの謙遜ではなく、いつも正直で、気取らず、ユーモラスでした。私にとって彼は現代の最も優れた哲学者の一人でした。

ここで、是非僕がずーっと以前に投稿した記事を読んで欲しいのですが…

これがポジトロニック・ブレインこそ、 AI(人工知能)というコンセプトが生み出されるきっかけだったのだと、 僕が強く信じる理由です。

序章 ここで一旦終了

*1:ここで『サイバネティックス』について、少し補足説明しておかなければなりません。 このコンセプトの創始者である ノーバート・ウィーナーNorbert Wiener, 1894〜1964) は「すべての知的な行動は、機械がシミュレートできるフィードバック・メカニズムの結果である」と考え、 フィードバックの概念を形式化しました(( ウィーナーは第2次世界大戦中の軍学連携により対空砲の自動照準発射に関する研究を行い、 ウィーナー・フィルター("Wiener filter")を考案しました。 このフィルターは信号処理の課題に統計学を用いた最初の例であり、その後の カルマンフィルター ("Kalman filter") などの先鞭をつけた研究成果でした。

実用化された防空システムはイギリスに配備され、 ナチス・ドイツ巡航ミサイル V1飛行爆弾 ("V-1 flying bomb") の迎撃に特に効果がありました。

この研究の最中に試みたパイロットの筋肉反応をモデル化が戦後のサイバネティックス研究のキッカケになったそうです。

ウィーナーが1948年に出版した 『サイバネティックス』 ("Cybernetics: Or Control and Communication in the Animal and the Machine", 1948, 1961) は正直なところ禅問答集のような本で、サイバネティックスとは「どのようにも解釈できる曖昧な概念」という他ないように僕は思います。 日本語訳は岩波書店から今も刊行されています(正確には2011年に復刊された)。

www.iwanami.co.jp

実際、サイバネティックスは数学や情報科学統計学だけでなく 医学、生理学、心理学、哲学、文学と非常に広範な研究者を集めた学際的研究活動であったため、 当時の著名な数学や情報科学の研究者、例えば クロード・シャノンClaude Shannon, 1916〜2001)、 アラン・チューリングAlan Turing, 1912〜1954)、 ジョン・フォン・ノイマンJohn von Neumann, 1903〜1957) は、この新しい研究領域に当初は積極的ではあったものの、 その研究上の関心やアプローチの違いから研究アクティビティからは早くに離脱し、 その後は距離をおいてました。

一方、ウィーナーは ウォーレン・マカロックWarren Sturgis McCulloch, 1898〜1969) や ウォルター・ピッツWalter Pitts, 1923〜1969) などともに生物の神経回路を模倣した (人工)ニューラルネットワーク ("Artificial neural network") の最初の計算モデルを開発しました。この試みが今日の 認知科学 ("Cognitive Science") の始まりだと言われています。

*2:前回(後編その4) では、すっかりジョン・キャンベルの物語の狂言回し扱いしてしまったアシモフですが、 今日でも有名なSF界の巨匠のひとりです

アシモフ」というか姓が示す通り、彼はユダヤ系ロシア人の家庭に生まれました。 公式には生年月日は1920年1月2日となっていますが、これが正確な日付なのかわからないこと。 ともあれ、アシモフが3才の1923年、家族はアメリカへ移住したそうです。これには、1917年の ロシア革命 後の混乱が続いていたロシアではユダヤ人排斥が行われていたことが連想されます。 (ロシアのユダヤ人の歴史 の 「ユダヤ人の財産及び機関の解散及び押収」 参照) アメリカに移住したアシモフ家は、キャンディ・ショップ(駄菓子屋と理解すべきか?)を営みました。 店には新聞や雑誌も置かれていた訳ですが、それがアシモフの博識の基礎を形成したと言われています。 アシモフは8歳でアメリカ国籍を取得しました。

学業成績が優秀だったアシモフは、公立校や高校を飛び級で卒業して1935年に15歳でコロンビア大学へ入学しました。 また1938年には初めての小説をSF雑誌『アスタウンディング』に持ち込み、 その作品は採用はされなかったのですが、 前回(後編その4) 紹介したように編集者ジョン・W・キャンベルと師弟関係のような友人関係を築くことになります。

SF作家として名高いアシモフですが、SF小説を多数執筆して発表していたのは実は1950年代までです。 中編 で紹介したように 1957年の スプートニク・ショックアシモフにとっても大きな衝撃だったようで、その後しばらく アシモフの著作はノンフィクション作品、すなわち「ポピュラー・サイエンス」が中心になりました。 スプートニク事件によりアメリカ国内に発生した 「科学技術が立ち遅れているという危機感を煽る」 世情が彼の執筆対象を変える契機だったと言われています。 ロシアからの移民の息子で、化学で博士号を取得し、当時SF作家として名を成しつつあったアシモフにとって、 この時期のアメリカの世情には感じるところがあったのかもしれません。

さて、アシモフのSF作品と言えば、まずは 「ファウンデーション・シリーズ」 ("Foundation series") ですね。いわゆるSF大河ドラマでして、個人的には創元推理文庫の『銀河帝国の興亡』という題名の記憶が強いのですが、 本屋で数ページ立ち読みして諦めた類の僕はエセSFファンでしたのであまりよく知りません 個人的な話で恐縮ですが…

もうひとつが 「ロボット・シリーズ」 ("robot stories") ですね。 初期のパルプ・マガジン時代に各紙に発表した短編小説を集めて単行本化した 『われはロボット』 ("I, Robot", 1950)と、 その後に執筆した長編SFミステリの3部作である 『鋼鉄都市』 ("The Caves of Steel", 1954)、 『はだかの太陽』 ("The Naked Sun", 1957)、 『夜明けのロボット』 ("The Robots of Dawn", 1983) などがあります。

アシモフがSF小説の執筆を再開したのは1980年代以降です。 60歳を過ぎてましたから、それは過去に手がけた小説の「それまでに広げていた風呂敷を畳んでいく」作業でもあったのかもしれません。

*3:実は僕はこの小説を今回初めて読みました。 で「あれ?これの物語は手塚治虫の作品で読んだことなかったっけ?」と思い立ち、 調べてみたところ『火の鳥』に登場するエピソードであることを思い出しました。 登場するロボットの名前も「ロビー」のままでした。

store.kadokawa.co.jp

この「復活・羽衣編」には他にもアシモフ作品からヒントを得たと思われるエピソードが登場します。 『火の鳥』のこの巻は手塚流のアシモフ作品へのオマージュだったのかもしれませんねぇ。

*4:この作品は最初の版はアスタンディング1942年3月号に採録されました。オリジナルは以下のリンクで読むことができます。

https://ia800208.us.archive.org/23/items/Astounding_v29n01_1942-03_dtsg0318/Astounding_v29n01_1942-03_dtsg0318.pdf

「堂々めぐり」は94ページから始まっています。 挿絵から「スピーディ」は随分大きなロボットであった事がわかります(笑)

*5:この本の翻訳は「アシモフ自伝I」として早川書房より出版されてましたが、 今は絶版になっているようなので中古本として購入するしかありません。

*6:序文では、メアリー・シェリーの小説「フランケンシュタイン」の誕生の秘話 (作家の悪夢) やに触れ、そしてロボット工学三原則を編み出した動機は、人類に反抗する怪物としてのロボット、 すなわちフランケンシュタインのようなロボット像と訣別する必要を感じたこと、 そして彼の「ロボット工学三原則」は 「フランケンシュタイン・コンプレックス」 ("Frankenstein complex") から脱却するために発想されたのであることを明らかにしています。

ちなみに「フランケンシュタイン」や「吸血鬼」が誕生した経緯は ディオダディ荘の怪奇談義 ("Villa Diodati") が詳しいです。両作品ともグロテスクなイメージがありますが、 その創作過程もそれに負けないくらいグロテスクだったとか。

*7:アメリカのライターペアにはよくある話なんだそうですけども、 ひとりが執筆した作品をもうひとりが売り込みに行く…と 彼らも役割を(不公平に)分担していた様で、 主に執筆を担当していた弟のオットー・バインダー (Otto Binder) は、結局兄とは手を切ってニューヨークの出版社に就職したとか。 その後は漫画の原作ライターとして、 例えばスーパーマンの脚本チームの一員として活躍しました。 特にスーパーガールの原作者として有名だったそうです。

ちなみにアダム・リンク (Adam Link) シリーズのオリジナルは、現在インターネット・アーカイブに収蔵されています。

例えば "I, Robot" は次のリンクから…

archive.org

また"Adam Link's Vengeance”は次のリンクから…

archive.org

オリジナルを閲覧することも、ダウンロードすることもできます。

とはいえ、英語で読むのは大変なので翻訳書を探してみたところ、 次の文庫が見つかりました。アダム・リンク・シリーズ全10話の翻訳本です。

atwonder.blog111.fc2.com

1970年代に出版されていた文庫本ですので、 現在はもちろん廃刊になっているのですが、 Amazon で古本をポチったらサクッと手に入りました。 興味のある方はお試しあれ。

*8:Wikipedia で述べられている "the story of a robot that is so much like a person that she falls in love with her creator and becomes his ideal wife." 「開発者と恋に落ち、理想の妻となる(ように努力する)人間に非常によく似たロボットの物語」との寸評ではよくわからないので、 ここでは Wikipedia の "Helen O'Loy" のページにあるプロットを拝借してきましょう。

Two young men, a mechanic, Dave, and a medical student, Phil, collaborate on modifying a household robot, originally meant only to cook and clean. They are more successful than they intended; despite the robot's household programming, it develops emotions. The robot, named "Helen O'Loy" (a play on Helen of Troy and "alloy"), falls in love with Dave. Dave initially avoids her and rejects her advances, but after some time he marries her and they live together on his farm.

Over the years Phil assists her in artificially aging her features to match the changes that occur in her human husband. When Dave inevitably dies, she sends a letter to Phil asking him to dissolve her metallic structure and bury her remains with her husband. She begs him not to let anyone discover their secret. In the final line it is revealed that Phil, who had been narrating the story, had secretly been in love with her the whole time.

機械工のデイブと医学生のフィルの2人の若い男性が協力して家庭用ロボットの改造に取り組んでいる。彼らは、彼らが意図したよりも成功している;ロボットは家庭でプログラミングをしているにもかかわらず、感情を発達させる。「ヘレン・オロイ」(ギリシャ悲劇 の登場人物のヘレネーと「alloy=合金」の組み合わせ)と名付けられたこのロボットは、デイブと恋に落ちる。デイブは最初は彼女を避け、彼女の誘いを拒絶するが、しばらくして彼は彼女と結婚し、2人は彼の農場で一緒に暮らす。

何年にもわたってフィルは、彼女の人間の夫に起こる変化に合わせて彼女の特徴を人工的に老化させるのを助ける。デイブが死にそうになったとき、彼女はフィルに手紙を送り、彼女の金属組織を解体し、彼女の遺体を夫と一緒に埋葬するように頼んだ。彼女は誰にも彼らの秘密を発見させないよう彼に懇願する。最後の台詞では、物語を語り続けていたフィルが、ずっと彼女をひそかに愛していたことが明らかになる。

どうでしょうか?僕個人としては、"Helen O'Loy" は "Robbie" というよりは 後編その3 で紹介した『未来のイヴ』に登場するアンドロイド Hadaly(ハダリー)を想起するのですけども。 やはり、男女の恋愛(あるいは夫婦の情愛)を「思いやりのある高貴な」と理解するのには少しだけ違和感を感じます。 例えば、聖書に出てくる説話のようなプラトニックな関係でなければ、こういった相互理解は成り立たない。 アシモフの "Robbie" で語られているのは「子供の無垢な(そして強情な)愛情」なので、 両者を「酷似してる」と感じるキャンベルの感覚には共感しずらいです。 もっとも「ロボットが人間愛を理解する」という状況設定自体が画期的だった時代なのでしょうが。

*9:ポールは"Robbie"を掲載する際、 アシモフに無断でタイトルを “Strange Playfellow” (「風変わりな遊び友達」) に変更しました。でも、のちに短編集が出版される際に元のタイトルに戻したとか…

*10:過去に月刊連載を手がけたことのある僕にはこれは実感的な話です。 そもそも書き手というものは「読者が読みたいと思っている事を書きたい」と考えるものなのです。 なので、書きながら「読者の気持ち」を想像することは何度もあります。 しかし実際に書いてみると「読者が読みたいのはこれだぁ!!」と確信がある時ほど外してしまうものなのです。 つまり、若手のお笑い芸人が「ここ笑うところなんですけど…」と思わず口走る時、そのネタは思い込みの産物である事を証明してしまう訳です。 実際、読者が何が読みたいのかを自覚できるようになるには書き手は場数を踏むしかないようですし、 僕自身はそのような感覚を持った事はこれまで一度もないのですが、 そこで商業雑誌の場合は編集者に頼ることはよくあります。 もっとも、編集者も複数の作家を掛け持ちで担当しているので、 キャンベルのように作品を書く前のアイデアだけの状態から付き合ってくれる編集者は皆無なのではないかな?と思います。 なのでアシモフの自伝を通して、キャンベルにとってアシモフがいかに特別な作家であったか、 またアスタウンディングにかけるキャンベルの執念を強く感じるのです。

*11:アシモフが徴兵されたのは太平洋戦争後のことです。 アメリカ軍は日本の占領やその後のソ連との冷戦への対応のため、 太平洋戦争後もしばらく徴兵を続けました。

*12:人造人間キカイダー がリアルタイムだった僕には『ポジトロニック・ブレイン』は 「良心回路」 を想起させるのですけども…

ちなみに漫画版だけ「良心回路」には「ジェミニィ」とのフリガナがついていた事を覚えておられる方は少ないかも? 由来について今回調べてみたところディズニー版 「ピノキオ」 に登場する相棒の 「コウロギ」 の名前なんだそうです。ちょっと驚きました。

サイエンス・フィクションのゴールデン・エイジ

〜遅ればせながら、序章めいたものを(後編その4)〜


2019/08/18
藤田昭人


SFをテーマにした「序章 後編その4」の本稿では、 SFのゴールデン・エイジについて紹介したいと思います。 後編その1 では「第2次世界大戦が終わった1940年代後半のアメリカではSFのブームが到来し、そこから1950年代を通してこのブームは拡大した」と紹介しましたが、 このSFブームを支えたのがゴールデン・エイジと呼ばれるSF作家たちです。 ちょっと長くなり過ぎてますが内容的にぶった切りたくないのでまんま長編で公開します。

個人的な思い出話になっちゃいますが…

僕にとって、この「子供向けと考えられてた作品が表現の範囲を広げて大人の読者の支持を獲得していく」様は、 1960年代後半、僕が小学二年生あたりに目の当たりにした漫画の表現の多様化のムーブメントを彷彿させます *1

小学生の頃の僕のいとこは中学生、高校生、大学生と揃っていてまして、 お盆や正月に父親の実家に帰ると彼らと顔を合わせるのですが、飛び抜けてチビだったのでいつもからかいの対象でした。 おそらく1968年〜1969年だと思いますが、畳の部屋に無造作に置かれていたコミック本を開いてみてビックリ。 それが『カムイ伝』の単行本で、僕がいわゆる青年漫画を初めてみる機会でした。 その日の夕食の際も大学生と高校生のいとこが熱く語っているので、恐る恐る「漫画の話なんでしょ?」と聞くと 「そうだよ…あぁ、でもお前にはまだ早いかな?」と笑われて、ムスッとなった記憶があります。 以前、彼らを拝み倒して『サイボーグ009』を単行本の第1巻と第2巻をせしめたのですが、 さすがに『カムイ伝』は「何が面白いんだ?」…との思いとは裏腹に強い衝撃を受けたのでした。 もちろん 長井勝一 が創刊した伝説の漫画雑誌 『月刊漫画ガロ』 も彼らに見せてもらいました。そこに掲載されている「小学生には意味がわからない不思議な漫画」の数々。 「僕の知らないところで何かが起きている!!」感があったのです。

…なので「同じようなことが1940年代のアメリカにも起こった?」と少し興味本位な気分で本稿を書いています(笑)


パルプ・マガジンのブーム

20世紀初頭、ヨーロッパでウェルズ、チャペック、ラングが活躍していた頃、 アメリカでは パルプ・マガジンPulp Magazine) が大流行していました。パルプ・マガジンといえば、クエンティン・タランティーノの映画 「パルプフィクション」 を僕は思い出します。

en.wikipedia.org

この黒髪の(ウィッグを付けた?)ユマ・サーマンのパルプ・マガジンの表紙を模した映画ポスターは、 この大衆向けメディアの低俗な話、くだらない話、三文小説、大衆小説といった猥雑な空気感を醸し出してますよね(笑)

このパルプ・マガジンにSF小説が登場したのは、1926年のSF小説専門誌 "Amazing Stories" (アメージング・ストーリーズ) の創刊からなんだそうです。 ちなみに、この時期(1920年代〜1930年代)のパルプ・マガジンは隆盛を極めており、もっとも売れた号の発行部数は100万部だそうで、 これは雑誌 "The New Yorker" が 1925 年に叩き出した過去最高の発行部数 1,043,792 部に匹敵します。 パルプ・マガジンは発行にかかるコストも低かったことから、無数のタイトルが創刊と休刊・廃刊を繰り返す乱立状態で、最盛期には 150 タイトルも流通したとか。 そう考えると(そもそもエドガー・アラン・ポーが不評だった)アメリカでは馴染みの薄かった(と思われる)SF小説の専門誌を創刊することも それほど無茶な企画ではなかったのかも知れませんね。

『アメージング・ストーリーズ』の成功から、その後類似のSF専門誌も多数創刊され、1930年代には凌ぎを削る状況になりました。 当時『アメージング・ストーリーズ』と競合していた人気雑誌には "Weird Tales" (ウィアード・テイルズ) "Astounding Stories" (アスタウンディング・ストーリーズ) "Wonder Stories" (ワンダー・ストーリーズ) などがあります。このパルプ・マガジンの乱立状態がSFの ゴールデンエイジGolden Age of Science Fiction) を育む場を提供しました。


サイエンス・フィクションのゴールデン・エイジ

さて、そのSFのゴールデン・エイジ。 この言葉がSFブームのムーブメントを意味するのか?それともムーブメントを支えたSF小説家の集団を意味するのか? 今ひとつわかりづらいのですが、その始まりもあまり定かではないようです。 古くからの(カルト的な)SFファンの間では 世界SF大会Worldcon) の第1回大会が開催された1939年あたりからという説が有力なんだそうですが、 大手出版社が参入して「SF」という独自の市場が確立された1950年代あたりからが 「真のゴールデン・エイジ」と主張する人もいるそうです。 また終わりはパルプ・マガジンが衰退していった1950年代とほぼ同期しているようで、 SFの場合は代表的な雑誌であった『アスタウンディング・ストーリーズ』が タイトルを『アナログ・サイエンス・フィクション&ファクト』に変更した1960年がゴールデン・エイジの終焉とする説が有力なんだそうです。

Wikipediaには ゴールデン・エイジ期の著名なSF作家 がリストアップされてますが、僕が知っている作家と言えば ロバート・A・ハインラインRobert A. Heinlein, 1907〜1988) 、 アイザック・アシモフIsaac Asimov, 1920〜1992) 、 アーサー・C・クラークArthur C. Clarke, 1917〜2008) あたり。いずれも ハヤカワ文庫 に古典として収蔵されているSF作品を書いた巨匠として知られている小説家です。 いずれもみな、ゴールデン・エイジの際に作家として頭角を表したそうです。 なかでもアイザック・アシモフロボット工学三原則Three Laws of Robotics) を示したSF作家として人工知能関連の話題でも、名前がよく登場しますよね? *2

どうもゴールデン・エイジのザックリした期間は1940年代〜1950年代と考えれば良さそうです。 が、この期間には太平洋戦争(1941〜1945)が発生しました。 戦争の影響でパルプ・マガジンを印刷するための紙が無くなったり、 当時は無名だったSF作家たちが軍務についたり *3 …と事実上の活動停止状態に追い込まれたので、 場合によっては1945年と1946年の間を境に前期と後期と分けられる事もあるようです。

ゴールデン・エイジで特筆すべきトピックと言えば1947年に発表されたハイラインの小説 『地球の緑の丘』 (The Green Hills of Earth) です。この作品が掲載されたのが19世紀に創刊された名門週刊誌の サタデー・イブニング・ポストThe Saturday Evening Post) だったことから「SF小説が市民権を得た」あるいは 「パルプ・ゲットーから最初に抜け出たSF小説家」などとSFコミュニティ界隈で盛んに喧伝されたとか。

ハイラインはSF作家としては初めてインディーズからメジャーに昇格した訳ですが、 視点を変えるとアメリカでもこの頃からSFは商業価値のある文芸ジャンルとなったと言えるでしょう。 前述の「真のゴールデン・エイジ」論とも 後編その1 で紹介した1950年の スペース・パトロール のヒットとも時期的に合致します。これは、エドガー・アラン・ポーが書いた 初のSF作品 が出版されてから110年後の出来事でもありました。


SF界のダースベーダー

小説、音楽、漫画、それからたぶんアイドルとかもそうなんだろうけど、 いずれもメジャーに昇格するためにはファンの支持を(出来るだけ多く)獲得することが必須の条件である事は今も昔も変わらないのでしょう。 そのためにはファンになってくれそうな人たちの目に触れるような活動できる場が必要なのも同じです。

アメリカのSFの黎明期の場合、無数に発行されていたパルプ・マガジンがその役割を果たしていました。 ゴールデン・エイジが始まったとされる1930年代末、SFファンなら誰もが注目していた雑誌は 「アスタウンディング・サイエンス・フィクション」 (Astounding Science Fiction) でした。その編集長 ジョン・W・キャンベルJohn W. Campbell, 1910〜1971) こそ、ゴールデン・エイジを生み出した伝説の人物なんだそうです。 キャンベルと親交の深かったアイザック・アシモフによれば 「SF史上最強のフォース」であり 「編集者としての彼の最初の10年間はその分野(SFコミュニティ)を完全に支配していた」 とのこと。まるでスターウォーズダースベーダーような紹介です *4

By his own example and by his instruction and by his undeviating and persisting insistence, he forced first Astounding and then all science fiction into his mold. He abandoned the earlier orientation of the field. He demolished the stock characters who had filled it; eradicated the penny dreadful plots; extirpated the Sunday-supplement science. In a phrase, he blotted out the purple of pulp. Instead, he demanded that science-fiction writers understand science and understand people, a hard requirement that many of the established writers of the 1930s could not meet. Campbell did not compromise because of that: those who could not meet his requirements could not sell to him, and the carnage was as great as it had been in Hollywood a decade before, while silent movies had given way to the talkies.

彼自身の模範と、彼の指導と、彼の逸脱しない持続的な主張によって、まずアストウンディングを、それからすべてのSF雑誌を自分の型に嵌めていった。彼はその分野の初期の方向性を捨てさせた。そこに埋もれるお定まりの登場人物を抹殺し、三文小説風のプロットを排除し、(新聞の)日曜版科学(記事のような記述)を根絶した。一言で言えば、彼はパルプの紫色を消した。その代わり、彼はSF作家に科学を理解させ、人々にも理解させることを要求したが、これは1930年代の著名な作家の多くが満たすことのできない厳しい要求だった。キャンベルはそのために妥協しなかった。彼の要求を満たせない人たちは彼に売ることができず、この大虐殺は10年前のハリウッドでの無声映画がトーキーに取って代わられた大虐殺と同じくらい大きかった。

今日の感覚では、確かに業界に君臨する帝王のような暴君ぶりですね。 キャンベルがこのようにSF作家の執筆に深く関与することができたのは、 彼自身にもSF作家としてのキャリアがあったからなんでしょう。

もちろん、このキャンベルの編集者としての(少々強引な)姿勢については賛否があった訳ですが、 彼の徹底した科学志向が当時のSF作家の力量を大きく引き上げた事は否定できません。 彼の過酷な洗礼を受けた気の毒なSF作家にはハイラインやアシモフ、クラークなど後のSF界の巨匠も含まれます。 アストウンディングの頃のアシモフはまだ大学生だったらしく、 キャンベルにどっぷりと取り込まれていたことを認めてます。 アシモフより少しトウのたったハイラインはキャンベルからの影響を完全否定しているとのこと。 作家側の受け止め方も様々だったのだったようです。


小説「デッドライン」のインパク

キャンベルの作家と編集者の二人三脚のような執筆スタイルが生み出したもっとも創造的な事例が小説「デッドライン」でした。 この小説、今日ではクリーヴ・カートミル事件と呼ばれているFBIが介入するトラブルを引き起こしました。 その顛末についてアシモフは次のように概略を語っています。

One example of the type of speculative but plausible science fiction that Campbell demanded from his writers is "Deadline", a short story by Cleve Cartmill that appeared during the wartime year of 1944, a year before the detonation of the first atomic bomb. As Ben Bova, Campbell's successor as editor at Analog, wrote, it "described the basic facts of how to build an atomic bomb. Cartmill and Campbell worked together on the story, drawing their scientific information from papers published in the technical journals before the war. To them, the mechanics of constructing a uranium-fission bomb seemed perfectly obvious." The FBI descended on Campbell's office after the story appeared in print and demanded that the issue be removed from the newsstands. Campbell convinced them that by removing the magazine "the FBI would be advertising to everyone that such a project existed and was aimed at developing nuclear weapons" and the demand was dropped.

キャンベルが要求した思索的でもっともらしいSFのタイプの典型として、Cleve Cartmill の短編 "Deadline" がある。これは1944年、史上初の核兵器が投下される1年前の作品である。(のちにアストウンディングから改題した)『Analog』誌の編集長としてキャンベルの後継者となった Ben Bova は、この作品について「原子爆弾の基本的製造法を解説したもので、戦前の科学専門誌に掲載された論文から得た科学情報を駆使してキャンベルと作者が構築したものである。彼らにとって、ウラニウム爆弾の構造は完全に明らかだったようだ」と記している。この小説が掲載された雑誌が発売されると、FBIがキャンベルのオフィスを急襲し、販売停止を要求した。キャンベルは、雑誌を販売禁止にしたら原子爆弾開発プロジェクトがあることを一般に宣伝するようなものだと言って、FBIを納得させた。

クリーヴ・カートミル (Cleve Cartmill, 1908〜1964) は、アメリカが第2次世界大戦に本格的に参戦した 1941 年あたりから執筆し始めた駆け出しのSF作家でした。 当時、アストウンディングの常連の作家たちが徴兵により軍務に就いていたため、 ネタ不足に悩まされていたキャンベルは身体上の理由に徴兵を免れていたカートミルを起用したようです。

また、小説「デッドライン」 ( "Deadline", Astounding Science Fiction (March 1944)) は 1943 年にカートミルがキャンベルに「未来の超爆弾」に関する小説を提案したことから始まったと言われています。 小説はアストウンディング 1944 年3月号に掲載されました。 この号は現在 Internet Archive に収蔵されており、以下のリンクで参照できます。

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小説『Deadline』の表紙

この小説が雑誌に掲載された 1944 年3月号というと、 第2次世界大戦のヨーロッパ戦線では ノルマンディー上陸作戦 のD-Day(1944年6月6日)の3ヶ月前、 太平洋戦線では「史上稀に見る無謀な作戦」として名高い旧日本陸軍による インパール作戦 が発動された時期になります。

Wikipediaマンハッタン計画の年表Timeline of the Manhattan Project) によれば、前年にオークリッジでウラン濃縮のプラントが稼働し始めてました。 一方「プルトニウムガンバレル型の原爆に使用するのは不適当」なことが発見された時期、 すなわち原子爆弾ではトップシークレットだった爆縮レンズの開発はまだ始まっていなかったようです。 したがって、この段階では広島に投下されたウランを用いたガンバレル方式の原爆 リトルボーイLittle Boy) 以外、原子爆弾の実現性は暗中模索の状態にあったと思われます。

そんな時期にトップシークレットであるはずのリトルボーイの実現に寄与した ウランの同位体分離による濃縮方法やそれにより完成にした新型爆弾の効果について 詳細に記述されたSF小説がパルプ・マガジンで発表された訳ですから、 マンハッタン計画の化学拠点であるロスアラモス研究所は大混乱に陥った事は想像するに難くないでしょう。水爆の父である エドワード・テラーEdward Teller, 1908〜2003) は、その混乱ぶりを次のように語ったそうです *5

Cleve Cartmill's "Deadline" provoked astonishment in the lunch table discussions at Los Alamos. It really did describe isotope separation and the bomb itself in detail, and raised as its principal plot pivot the issue the physicists were then debating among themselves: should the Allies use it? To the physicists from many countries clustered in the high mountain strangeness of New Mexico, cut off from their familiar sources of humanist learning, it must have seemed particularly striking that Cartmill described an allied effort, a joint responsibility laid upon many nations.

Discussion of Cartmill's "Deadline" was significant. The story's detail was remarkable, its sentiments even more so. Did this rather obscure story hint at what the American public really thought about such a superweapon, or would think if they only knew?

Talk attracts attention, Teller recalled a security officer who took a decided interest, making notes, saying little. In retrospect, it was easy to see what a wartime intelligence monitor would make of the physicists' conversations. Who was this guy Cartmill, anyway? Where did he get these details? Who tipped him to the isotope separation problem? "and that is why Mr. Campbell received his visitors.

クリーブ・カートミルの『デッドライン』は、ロスアラモスでの昼食会の討議で驚きを誘った。同位体分離と爆弾そのものを詳細に記述していて、物理学者たちが議論していた問題を中心にして提起していたからだ。多くの国の物理学者が、ニューメキシコの山奥の奇妙な世界に集まって、おなじみの人道的見地の源泉から切り離されていることを考えると、カートミルが多くの国に課せられた共同責任という連合した努力を説明したことは、とりわけ衝撃的だったに違いない。

カートミルの『デッドライン』に関する考察は重要であった。その話の詳細は驚くべきもので、その感情はなおさらそうだった。このかなり曖昧な話は、アメリカ国民がそのような超兵器について本当に考えていたことを暗示していたのだろうか?それとも彼らが知ってさえいれば考えていたのだろうか?

科学者の議論が注目を集めているが、特定のテーマに興味を持ってメモを取っていたが、ほとんど何も言わなかった警備員をテラーは思い出した。振り返ってみると、戦時中の情報監視官が物理学者の会話をどう解釈するかは容易に理解できた。ところで、このカートミルという男は誰だったのか?彼は、どこでこれらの詳細を得たのか?彼に同位体分離の問題を教えたのは誰か?キャンベル氏が来訪者を迎えたのもそのためである。

テラーのこの証言には3つのポイントがあります。

  • ナチスドイツが原爆開発を断念したとの情報は1944年11月にもたらされました *6。一般には、この情報の到着を契機にマンハッタン計画に参加する科学者の間で原子爆弾の使用の是非の議論が始まった事が知られていますが、その8ヶ月前に発表された『デッドライン』には「核の国際管理」などを示唆する内容が含まれていたことから、科学者の議論を促す要因の1つに成り得たことです。
  • 科学者の議論に同席していた警備員こそが軍の情報監視官であり、事件化する発端だったことです。すなわち「クリーヴ・カートミル事件」とはマンハッタン計画の関係者による情報漏洩の嫌疑により捜査が始まったということになります。もう少しあからさまに語ると「ロスアラモスの科学者のトップエリートたちの高度に専門的な議論を三流雑誌のパルプ・マガジンの作家や編集者が理解している筈がない」という思い込みで捜査に踏み切った訳です。
  • テラーは明確には語ってないですが(おそらく気づいてなかったと思いますが)マンハッタン計画に参加する科学者には相当数のアストウンディングの読者がいたと思われる事です。これは、ニューメキシコと言った辺鄙な場所で急に読者が増え始めたことから、少なくともキャンベルはそこで何かが始まったことに気づいていたと考えられます。

マンハッタン計画を管轄していた米陸軍からの要請を受けて、 FBIがカートミルとアストウンディングの編集部に対する情報漏洩の捜査を開始しました。 後にマンハッタン計画での情報漏洩の真相が明らかになってますが、 雑誌『アストウンディング』に掲載されたこの短編小説とは全く無関係でした *7


クリーヴ・カートミル事件の真相

実は、クリーヴ・カートミル事件は長らくSFファンの間での噂話以上にはなりませんでした。 というのも軍は捜査はしたものの、カートミルやキャンベルを訴追しなかったからです。 アシモフなど事情を知る何人かが事件について言及していましたが、半ば都市伝説のような扱いだったそうです。

ですが、2001年の機密解除により、この事件の捜査資料が情報公開法を使って入手可能となりました。SF作家の ロバート・シルヴァーバーグRobert Silverberg, 1935〜) は捜査資料を元にレポートを書きました。このレポートは2003年の9月と10月の2回に分けて アシモフズ・サイエンス・フィクションAsimov's Science Fiction) に掲載されました。現在 Internet Archive に収蔵されており次のとおり閲覧できます。

捜査の詳細についてはシルヴァーバーグのレポートを読んでもらうこととして、 本稿ではいくつかの基本的な疑問について掻い摘んで紹介します。


小説『デッドライン』を書いたのは誰か?

捜査資料にはこの短編小説が書かれた経緯が記述されていたそうです。 というのもアストウンディングの編集部はニューヨークに所在していたのですが、 クリーヴ・カートミルはカリフォルニアのマンハッタンビーチ在住だったからです。 おそらく小説に関わる相談は文通で行われたのでしょう。

レポートでは「カートミルが超爆弾に関する小説を提案した」と断定しています。 しかし、その超爆弾を核兵器としたのはキャンベルだったようで、 彼は核分裂性を持つU-235の存在やそれを抽出するための「新しい原子同位体分離法」が既に確立している事を承知していたようです。

They have quantities measured in pounds. They have not brought the whole amount together, or any major portion of it. Because they are not at all sure that, once started, it would stop its reaction until all of it had been consumed . . . . They’re afraid that that explosion of energy would be so incomparably violent . . . . that surrounding matter would be set off . . . . And that would be serious. That would blow an island, or hunk of a continent, right off the planet. It would shake the whole Earth, cause earthquakes of intensity sufficient to do damage on the other side of the planet, and utterly destroy everything within thousands of miles of the site of the explosion.

既にポンドで測定できるほどの量があるが、その全量、またその大部分をまとめてはいない。なぜなら、いったん開始してしまえば、それがすべて消費されるまで反応を止めることができるかどうか、まったく確信がないからである....彼らは、そのエネルギーの爆発が比較にならないほど破壊的になることを恐れている....周囲の物質が発火し....それは深刻だ。そうなれば、地球から離れた島や大陸の塊を吹き飛ばすことになる。それは地球全体を揺さぶり、地球の反対側にダメージを与えるのに十分な強さの地震を引き起こし、爆発現場から数千マイル以内のすべてを完全に破壊するだろう

おそらく書簡に書かれたこの発言から、キャンベルが核分裂により発生するエネルギーの規模や 兵器として活用した時の破壊力について正確に把握していたことが伺えます。

さらに小説の骨格となるプロットについてもキャンベルは踏み込んだ発言をしていたようです。

one way to handle the theme might be to postulate a war on some other planet between powers comparable to the Axis (Them) and the Allies (Us) of World War II, in which the Axis, facing defeat, had decided to set off an experimental A-bomb regardless of consequences. I think the story would be the adventure of the secret agent who was assigned to save the day–to destroy that bomb.

この問題を扱うひとつの方法は第二次世界大戦において枢軸国(敵)と連合国(我)に匹敵する勢力の間で他の惑星に戦争を起こすことであり、枢軸国は敗北に直面し、その結果にかかわらず実験用原子爆弾を爆発させることを決定したのではないか?この物語は、その日を救うため、つまりその爆弾を破壊するために任命された諜報員の冒険になると思う。

このようなキャンベルの返答に対し、 カートミルはさらに次のような質問をしています。

Wouldn’t the consequent explosion set up other atomic imbalances, which in turn–and so on, until the whole damned planet went up in dust? . . . How do you control the explosion time of such a bomb? Isn’t it, once it has been assembled, trying each instant to blow itself apart? . . .In other words, where’s the trigger or fuse? . . . You see, I want to know how to make a U-235 bomb, so that I’ll know how to destroy it, because I think that will be highly entertaining reading. Keeping an eye, of course, on what should or should not be told for social, military, or political reasons.

その結果として起こった爆発は、他の原子の不均衡を引き起こし、その不均衡は、この忌まわしい惑星全体が塵と化してしまうまで続くのではないでしょうか?...そのような爆弾の爆発時間はどのように制御するのですか?いったん組み立てたら、瞬間ごとに自分を吹き飛ばそうとしているのではありませんか?...つまり、トリガーあるいはヒューズはどこにあるんでしょうか?...私はU-235爆弾の作り方を知りたいし、それを破壊する方法も知りたい。なぜなら、それはとても面白い読み物になると思うからです。もちろん、社会的、軍事的、政治的な理由で何を話すべきか、何を言わないべきかについて目を光らせておくことも必要ですが。

その返事としてキャンベルは原子爆弾の組み立て方、その引き金の引き方、そして原子爆弾の起こりうる結果についてカートミルに説明したようです。 それはおそらくWikipedia原子爆弾の理論と構造 として記載されているような内容だったように思います。

カートミルは執筆した草稿の表現の正確さについてキャンベルに都度確認を入れていたようです。

Two cast-iron hemispheres, clamped over the orange segments of cadmium alloy. And the fuse – I see it is in – a tiny can of cadmium in a beryllium holder and a small explosive powerful enough to shatter the cadmium walls. Then – correct me if I’m wrong, will you? – the powdered uranium oxide runs together in the central cavity. The radium shoots neutrons into this mass–and the U-235 takes over from there. Right?

カドミウム合金のオレンジ色のセグメントの上に固定された2つの鋳鉄半球。ヒューズは、ベリリウムのホルダーに入ったカドミウムの小さな缶と、カドミウムの壁を破壊するほど強力な小型爆弾だ。(私が間違っていたら直してくれますか?)次に、粉末状の酸化ウランが中央の空洞に集まっている。ラジウムはこの質量に中性子を入射し、U-235がその質量を引き継ぐ。(そうですよね?)

以上のことから、小説『デッドライン』をわかりやすく説明すると 「原作キャンベル、作文カートミル」と言った漫画ではありがちなコンビネーションで創作されたことが想像されます。 ちなみに、カートミルはダークなファンタジー作品を得意とするSF作家で、優しい口語的で流暢な語り口に特徴があったとか。 キャンベルの小難しい理論をわかりやすく説明するにはうってつけのライターだったのかもしれません。 もっとも掲載されたアストウンディングの1944年3月号の読者の人気投票では、『デッドライン』は6作中最下位だったそうですが…


マンハッタン計画からの核兵器に関する専門的な技術情報の漏洩はあったのか?

都市伝説ではクリーヴ・カートミル事件の捜査を行ったのはFBIとされてましたが、 実際に捜査を行ったのは米陸軍省の対敵諜報部隊だったようです。(故に機密解除に時間を要した?)

小説『デッドライン』がマンハッタン計画を遂行していた彼らの注目を集めたのは必然でしょう。 シルヴァーバーグのレポートによれば、まずは文責を追うキャンベルに対して(尋問ではなく)ヒアリングが行われたようです。 が、この手の対人コミュニケーションではキャンベルの弱点が晒されてしまうようです。

The copy of the agent’s report, dated April 13, has Campbell’s name carefully whited out, but says that "the editor of this magazine assumed full responsibility for whatever technical disclosures appeared therein. He stated he wrote to Cleve Cartmill requesting him to write a fictional (imaginative) story around the technical material contained in the story and that Cartmill had no technical knowledge whatever." Campbell asserted, Riley said, that "the subject of Atomic Disintegration was not novel to him, since he had pursued a course in atomic physics at Massachusetts Institute of Technology in 1933."

4月13日付のエージェントの報告書のコピーは、キャンベルの名前が注意深く消されていたが、次のように書かれていた。「この雑誌の編集者は、そこに掲載されたいかなる技術的な開示についても完全な責任を負うことになった。彼はクリーヴ・カートミルに手紙を書き、ストーリーに含まれている技術的な題材について架空の(想像的な)ストーリーを書くよう依頼したが、カートミルは技術的な知識が全くなかった」と述べた。捜査官によれば、キャンベルは「私は1933年にマサチューセッツ工科大学(MIT)で原子物理学の課程を修めていたので、原子崩壊は彼にとって目新しいものではなかった」と言い張った。

実際にはMITを中退していたにも関わらず、このような強弁を繰り出すあたりが良くも悪くもキャンベルらしいところで、 インタビューにあたった捜査官には「尊大でイライラさせる態度」「少々利己的な人物」と映ったようです。 中退の事実を伏せたことから捜査官に疑念を持たれてしまっため、この件での傷口を広げてしまう結果になりました。 捜査官はキャンベルから聞き出した連絡先から、カートミルへの捜査に着手します。

カートミルへの捜査はカルフォルニアにいる別の捜査官が担当したようです。 最初はSF好きの郵便配達人を装ったエージェントをさりげなく送り込むような手の込んだアプローチが功を奏し、 カートミルは全く警戒する事なく『デッドライン』は胡散臭い話だと考えている事や もっと高級な雑誌に寄稿したいと考えている事など、SF作家としての本音を語ったそうです。

捜査上の争点となったのは、カートミルも当初は『デッドライン』を自らの物理学の知識を使って書いたと主張し、 それはキャンベルの主張と矛盾していた事でした。しかし、カルフォルニアの捜査官がコンタクトしているうちに、 カートミルは科学的な背景についてはキャンベルの助けを借りた事を認めました。 当初の発言は「他人が伝えた情報を一語一句抜き取ったことを、公には認めたくなかった」ことが理由だとも語ったそうです。 このカートミルの善良な市民ぶりが捜査官の心証を大きく改善し、キャンベルが主張するように、 小説『デッドライン』は一般に公開されている技術情報に基づいた創作である事を捜査当局も受けいれたそうです。


小説『デッドライン』が発禁処分を免れたのは何故か?

シルヴァーバーグのレポートによれば、捜査資料には陸軍省の(ウラン濃縮の工場があった)オークリッジ研究所は、小説『デッドライン』の(発禁を含む)取り扱いについて、 軍事検閲局(Military Censorship Department)に対処を依頼し、さらにその依頼は検閲局(Office of Censorship)へと伝達されたことが記述されていたそうです。 しかし、検閲局はキャンベルに対し「1943年6月28日の特別要請に関する追加資料」(additional material relating to subjects involved in our special request of June 28, 1943) を出版しないよう求めるに留めたようです。第2次世界大戦中、アメリカは 原子爆弾に関する検閲 を行っていましたが、担当官のジャック・ロックハートは民間を相手にする検閲局の運営方針について次のように語ったと捜査資料には記されていたとのこと。

We have always been reluctant to interfere with fictional material because of the impossibility of fettering the mind of man.

私たちは、人間の心を縛ることができないため、常に架空の素材に干渉することを避けてきました。

捜査資料にはこれ以上の情報はなかったそうで、検閲局の裁量で対処が行われた(つまりお叱りだけ)ということなのでしょう。 シルヴァーバーグのレポートには次の記述がありました。

Campbell always maintained that he told the censors that if he deleted all references to atomic power from his magazine, his clever readers would surely deduce that a hush-hush atom-bomb project was in the works. Maybe so. Certainly I can find no further stories about U-235 bombs in the next dozen or so issues of Astounding, though a Fritz Leiber story speaks of a world devastated by "subtronic power," a Raymond F. Jones novel mentions "gigantic atomic projectors" being used as weapons, and a Lewis Padgett story about mutants is set in a world that has been devastated by atomic war.

キャンベルは常に、自分の雑誌から原子力に関する記述をすべて削除すれば、賢明な読者はきっと、極秘の原子爆弾計画が進行中だと推測するだろうと検閲官に語っていたと主張した。そうかもしれません。確かに、次の十数号のアスタウンディング号にU-235爆弾についてのこれ以上の話は見当たらないが、Fritz Leiberの記事には「サブトロニックな力」によって荒廃した世界についての話があり、Raymond F.Jonesの小説には「巨大な原子プロジェクター」が兵器として使用されていると書かれており、Lewis Padgettの小説には原子戦争で荒廃した世界を舞台にした突然変異体についての話がある。

結局「U-235爆弾について今後は書かないが、既に発表してしまったものについては対処はしない」というキャンベル流の解釈が罷り通ったようです。


このように、小説『デッドライン』はジョン・キャンベルの徹底した科学指向がよく体現された小説でした。 確かに「敗色濃厚の敵がヤケクソで炸裂させようとしている核兵器の使用を阻止する」というプロットは少々子供じみてますが、 そこに最新の科学研究から得た知識やそれに基づく描写をふんだんに盛り込む事によりリアリティを演出する手法は 後編その2 で紹介したポー・ヴェルヌの手法を継承する20世紀のアプローチと言えるのかもしれません。 こと小説『デッドライン』に関して言えばキャンベルの持つ原子物理学に関する最新知識が大量に投入されたため、 実際の極秘研究プロジェクトの領域にまで踏み込んでしまった。 その意味では陸軍省の情報漏洩捜査はこの短編小説に科学的な正しさのお墨付きを与えたとも言えます。

これこそが、アシモフが言う「編集者としての彼の最初の10年間はその分野を完全に支配していたSF史上最強のフォース」の正体だったように僕は思います *8


ジョン・キャンベルの落日

ジョン・キャンベルは生涯、アスタウンディングの名物編集長であり続けました。 しかし、権勢を誇った1940年代とは打って変わって、1950年代以降は次第に忘れられた存在となっていきました。

その一番の理由はキャンベルにとっては皮肉な結果だったのですが、 後編その1 でも紹介した1940年代後半から始まるSFブームです。大手の雑誌にSF小説が掲載されるようになると、作家はそちらからのリクエストを優先するようになりました。誰もが「パルプ・ゲットーから最初に抜け出る」ことを目指し始めました。今時の地下アイドルがメジャーデビューを目指すのと同じ構図ですね。

もちろん、キャンベルのお気に入りのSF作家たちが彼から離れていったことには、彼自身にも理由がありました。 1950年代に入ると L・ロン・ハバードL. Ron Hubbard, 1911〜1986) の ダイアネティックスDianetics) に傾倒していきました。 *9 このような考えに付いて行けずにキャンベルの元から離れた作家も多かったそうです。 当時のキャンベルを数多の疑似科学ダイアネティックスに駆り立てたものが何だったのかはわかりませんが、 行き過ぎた科学主義がこういった落とし穴にハマってしまう例は他にも多々あるようです *10

そして、パルプ・マガジンの世界でも新たな雑誌が台頭してきました。Wikipediaでは ゴールデン・エイジの終焉 について次のように解説しています。

Seeking greater freedom of expression, writers started to publish their articles in other magazines, including The Magazine of Fantasy and Science Fiction, If magazine, a resurrected Amazing Stories, and most notably, Galaxy.

表現の自由を求めて、作家たちは『ファンタジーサイエンス・フィクション』誌、『If』誌、復活した『Amazing Stories』、そして最も有名な『Galaxy』といった雑誌に記事を掲載し始めた。

世界SF大会World Science Fiction Convention) は1953年に「前年に発表されたSFやファンタジーの作品および関連人物に贈られる賞」である ヒューゴー賞Hugo AwardHugo Award) を創設しました。1953年の 11th World Science Fiction Convention での初表彰の際、 Hugo Award for Best Professional Magazine のカテゴリーでは、 アスタウンディング・サイエンス・フィクションAstounding Science-Fiction) と ギャラクシー・サイエンス・フィクションGalaxy Science Fiction) が表彰されました。SFシーンを牽引する新旧のパルプ・マガジンの揃い踏みは、 時代の移り替わりを物語る出来事だったのでしょう。


序章 後編その5に続く


余談のサマースペシャ

本編だけでも十分長いのに「まだ、なんかあるのか?」と怒っておられる方もいらっしゃると思いますが。 当初は後編その3に続けて 8/5〜8/6 あたりに公開するつもりだったのに、 ガッツリ2週間かけてしまった、そのあたりの言い訳を少し…

毎年この時期になると第2次世界大戦の出来事を扱ったドキュメンタリーが放送されますが、今年も 『BS1スペシャル▽“悪魔の兵器”はこうして誕生した~原爆 科学者たちの心の闇』 が再放送されました。

www.nhk.or.jp

本稿でも取り上げたマンハッタン計画に参加した科学者たちの物語です。 で、本編の主題だった「クリーヴ・カートミル 事件」のエドワード・テラーの証言を読み直していた時に、 ふと「事件を軸にマンハッタン計画の内と外を対比してみては?」と思いついたのでした。 以降、2週間かけて色々書き足したのですけども、出来上がりに「舌足らず」を感じたので、 少しだけ補足をさせてください。

まず、マンハッタン計画アメリカの計画として知られてますが、 その開発を担った科学者チームの主力は亡命ユダヤ系ドイツ人を中心としたヨーロッパ出身の原子物理学者たちです。 このブログでもどこかで紹介した記憶があるのですが、イギリスが主導した研究プロジェクト チューブ・アロイズTube Alloys) での研究成果を受け継いで原子爆弾の製造を目的として立ち上げられたのがマンハッタン計画です。 チューブ・アロイズで研究を主導した原子物理学者はそのままマンハッタン計画に合流しました。 つまりマンハッタン計画においてノーベル賞を受賞したりノミネートされた経験のある高名な物理学者は皆ヨーロッパからやってきました。

それに対し例えば、 ロバート・ウィルソンRobert Wilson, 1914〜2000) といったアメリカ人の物理学者は若く優秀ではありましたが、研究者としての実績はまだありませんでした。 彼らがマンハッタン計画に惹きつけられた大きな理由は、自らの研究分野の先達と一緒に働いて学ぶ機会を得ることでした。

もしロスアラモスに『アスタウンディング』の読者がいたとしたら、 それは彼らだったのではないか?…と僕は思ったりします。 小説『デッドライン』を読んだ彼らは、 キャンベルがカートミルに語ったと言われる「敵の原爆使用を阻止する」という 少々子供じみたシナリオで自らの役割を理解していたかもしれません。 であれば、彼らが後に、その架空の物語と現実の出来事の落差の大きさに打撃を受けたことでしょう。

ドキュメンタリに登場するすっかり年老いた彼らは、 それぞれ自らの後悔を口にしていました。 もちろん僕もその発言に疑念を感じた訳ではありません。 しかし、誰の口からも同じ意味の言葉が繰り返されていることに、 自分の行動をそのように理解せざる得なかった彼らのその後の現実を思わずにはおられません。

番組をご覧になった方、どのようにお感じになられましたか?

*1:僕よりも若い読者の皆さんにはピンとこない話かもしれませんが、 当時、全ての大手漫画雑誌に連載を抱え、 1963 年には初の連続テレビアニメ「鉄腕アトム」の放映にも成功して絶頂期にあった 手塚治虫 は、翌1964年に創刊された雑誌「ガロ」で発表された貸本劇画出身の漫画家、 白土三平の 「カムイ伝」 に狼狽するほどの衝撃を受けたことが語り継がれています。

手塚のコメントが掲載されている手塚自身が書いた半生記「ぼくはマンガ家」は現在、復刻されて下記から入手できます。 白土三平について語っているところでは、手塚自身の想像を遥かに超えて拡大していく漫画の読者層について「唖然」とする自分を率直に語っています。

rittorsha.jp

実は手塚の文章を僕は初めて読んだのですが、非常に軽妙な語り口に「関西人」を感じました。 「朝から晩まで漫画ばかり書いている」イメージだったのですが、非常に交友関係の広い人だったんだなぁという印象です。 彼がよく知る日本の黎明期のSF作家についても多数話題に登っているのですが…これ以上手を広げると収拾がつかなくなるので今回は割愛します(笑)

手塚のこの見立て実に正確で、 学生運動 が徐々に熱を帯び始めていた当時の世情を背景に「カムイ伝」を支持・愛読する大学生・社会人が爆発的に増え、 その後の漫画の読者層の急速な拡大に大きな影響を与えました。 のちに手塚は「白土氏が登場してから、子供漫画の傾向は一段と変化したといっていい、 重厚なドラマ、リアリズム、イデオロギーが要求され、単なる物語性だけではおとなに通用しなくなったのである。 おとなに、つまり子供漫画がまずおとなに評価され、ジャーナリズムに乗ってから子供に敷衍されるという、逆コースを辿ることになったのである。」と語っています。

*2:ちなみに、この三原則は、アシモフの短編集 『われはロボット』 (”I, Robot”, 1950) に収録されている短編 「堂々めぐり」 (”Runaround", 1942) にが登場します。

*3:太平洋戦争中、 フィラデルフィア海軍工廠Philadelphia Naval Shipyard) でハイライン(予備役技術士官)とアシモフ(民間技術者)、それから L・スプレイグ・ディ・キャンプL. Sprague de Camp, 予備役技術士官) が勤務していたようです。

*4:またまた1960年代の日本の漫画コミュニティの話と対比になりますが、 前述の「月刊漫画ガロ」もまた当時の漫画ファンの絶大な支持を受け、無名の漫画家に活動の場を与え、支持層の拡大に大きく寄与した雑誌でした。 ですが、編集長の長井勝一は漫画家に対し寛容で放任主義だったと言われています。 キャンベルがダースベーダーなら長井はヨーダと形容できると言ったところでしょうか?

*5:テラーの証言は、物理学者でありSF作家でもある グレゴリー・ベンフォードGregory Benford, 1941〜) による "Old Legends" で語られています。 PDFバージョンは こちら

*6:この情報は、米軍のアルソス・ミッション(Alsos Mission)によりもたらされました。アルソスは第二次世界大戦中の敵国の科学的発展を探索するため、軍事、科学、情報の要員により組織されたチームで、ドイツの核兵器開発プロジェクトを中心に、化学・生物兵器とその運搬手段を調査しました。

1944年11月25日、ドイツ占領下にあったフランスのストラスブールの攻略に随行したアルソスは、ストラスブール病院の敷地内でドイツの核実験室は発見しました。ワイツゼッカーの事務所、フレイシュマンの研究室、ストラスブール病院で発見された文書は、ドイツがウラン濃縮のための実用的なプロセスを開発することができなかったことを示しており、アルソス・ミッションは初めて、ドイツが核兵器保有しておらず、当面保有しないであろうことと断定的に報告することができました。

同時に、これは「ナチス核兵器保有する」との仮説が幻想で、マンハッタン計画の決行の大前提が崩れた事を意味していました。

*7:1943年から1980年までの37年間にわたり通信傍受を行った ベノナ・プロジェクトVenona Project) はアメリカとイギリス共同で実施された極秘の対ソ連防諜プログラムでした。 1991年のソビエト連邦の崩壊を受け、 1995年にアメリカ政府はプロジェクトの存在を認め、その一部の情報が公開されました。

その公開情報にはマンハッタン計画から情報漏洩に関わる次のような情報が含まれました。

ローゼンバーグ夫妻
ソ連が原爆実験に成功した翌年の1950年、ユダヤ系ドイツ移民のローゼンバーグ夫妻が逮捕されました。後に ローゼンバーグ事件 として知られるスパイ事件です。裁判で夫妻は死刑になりましたが、 極秘プロジェクトであったベノナで得られた情報は一切伏せられたため、 裁判後も「証拠不十分」「冤罪」との主張が続きました。 ベノナ情報の公開により夫妻の関与が明らかになりました。

クラウス・フックスKlaus Fuchs
クラウス・フックスはマンハッタン計画に参加した若手科学者の中でも最も優秀な理論物理学者でした。 Wikipedia によると、彼の上司であった ハンス・ベーテHans Bethe) は彼について次のような賛辞を送っていました。

From August 1944, Fuchs worked in the Theoretical Physics Division at the Los Alamos Laboratory, under Hans Bethe. His chief area of expertise was the problem of imploding the fissionable core of the plutonium bomb. At one point, Fuchs did calculation work that Edward Teller had refused to do because of lack of interest.[28] He was the author of techniques (such as the still-used Fuchs-Nordheim method) for calculating the energy of a fissile assembly that goes highly prompt critical,[29] and his report on blast waves is still considered a classic.[30] Fuchs was one of the many Los Alamos scientists present at the Trinity test in July 1945.[31] In April 1946 he attended a conference at Los Alamos that discussed the possibility of a thermonuclear weapon; one month later he filed a patent with John von Neumann, describing a method to initiate fusion in a thermonuclear weapon with an implosion trigger.[32] Bethe considered Fuchs "one of the most valuable men in my division" and "one of the best theoretical physicists we had."[30]

1944年8月から、Fuchsはロスアラモス研究所の理論物理部でHans Betheの下で働いていた。彼の主な専門分野は、プルトニウム爆弾の核分裂性の核を爆縮させる問題であった。ある時点でFuchs氏は、Edward Teller氏が関心の欠如を理由に拒否していた計算作業を行った。彼は極めて迅速に臨界に達する核分裂性集合体のエネルギーを計算する技術(現在も使われているフックス=ノルトハイム法など)の開発者であり、爆発波に関する彼の報告は依然として古典的と考えられている。フックス氏は、1945年7月に行なわれた『トリニティー・テスト』に参加したロスアラモス研究所の多くの科学者の一人だ。1946年4月、彼はロスアラモスで熱核兵器の可能性を議論する会議に出席した。1ヵ月後、彼はジョン・フォン・ノイマン氏に特許を申請し、爆縮の引き金を引いた熱核融合兵器で核融合を開始する方法を説明した。BetheはFuchsを「私の部署で最も価値のある人の一人」「最も優れた理論物理学者の一人」と考えている。

この文章を見る限り、フックスはマンハッタン計画がトップ・シークレットとしていた技術開発の多くに関わっていたかのように見えます。

ベノナは、そんな彼の裏の顔を暴き出しました。 彼はドイツ共産党の党員であり、ナチスが仕掛けた ドイツ国会議事堂放火事件 の直後にイギリスに逃れたが、かつての仲間とのコネクションは保ち続け、 原子爆弾開発でのトップ・シークレットをソ連にリークし続けた…マンハッタン計画に関わったモンスターの中でも最大級のひとりなんじゃないかと僕は思います。

*8:Wikipediaの 「SFの大衆への影響」 よると、アシモフは「クリーヴ・カートミル事件」について次のように語っているそうです。

Asimov said that "The dropping of the atom bomb in 1945 made science fiction respectable. Once the horror at Hiroshima took place, anyone could see that science fiction writers were not merely dreamers and crackpots after all, and that many of the motifs of that class of literature were now permanently part of the newspaper headlines".

ちなみに、原爆投下に言及するこのコメントは50年前の1969年に出版されたアシモフの短編集 "Nightfall and Other Stories" に書き加えられた1文である事にご留意ください。キャンベルの親しい友人でもあったアシモフは、 SFという新しい文学領域へのキャンベルの多大なる貢献を周囲に強くアピールしたかっただけなのだと思います。

*9:今日では新興宗教 サイエントロジーScientology) として知られています。映画俳優のトム・クルーズが入信したことで話題になりましたよね?

*10:視点を変えると「科学」もまた「物理的および論理的に説明可能な宗教」と言うことができるように僕は思います。 例えば、原子物理学の説明は原子のスケールでの話ですので人間には直接観察する事ができません。 もちろん実際の科学研究の現場ではこれらの「見えない現象」を確認するための方法もまた開発している訳ですが、 そういった現場で登場することがら得てして非常に専門性の高いですから、 それを理解していない一般人には研究者の主張を信じるか?否か?は宗教とあまり変わらないのかもしれません。 多くの人にとっては今日の「人工知能」もまた、科学と宗教のボーダーラインの上に存在しているような気が僕はします。