アンドロイドの起源

〜遅ればせながら、序章めいたものを(後編その3)〜


2019/08/03
藤田昭人


SFをテーマにした「序章 後編その3」の本稿では、ヴェルヌやウェルズの時代、 つまり19世紀のSFシーンに本ブログの主題である人工知能が登場していたのか?を追いかけたいと思います。 もっとも、既に紹介したように 人工知能という用語が登場したのは 1956 年 ですので、ここでは例えば「人間が創造した知的な存在」などと読み換える必要があります。


未来のイヴ

前回 紹介した メアリー・シェリーフランケンシュタイン は、確かに人間の手で作られてますし自らの存在について悩む知性も持ち合わせています。 でも…やはりフランケンシュタイン人工知能と結びつけるのは違和感がありますよね? どうしても「人造人間」とか「モンスター」のイメージが拭い去れません。

19世紀のSFシーンで人工知能を予感させる存在といえば、古く12世紀から続いてきた 「オートマタ」 (Automaton) の伝統を受け継ぐ「アンドロイド」と言うことになるようです。 「あれ?」と思われる方もいるかもしれません。 僕もそうだったのですが、アンドロイドという言葉はロボットよりもずーっと前から存在していたようです。 林美里さんの 『拒絶する人造人間: 人造人間小説Frankenstein とL’Ève Future から見る逸脱論』 では「アンドロイド」という言葉の起源について次のように詳しく紹介されています。

「アンドロイド(android)」と言う言葉が世界で最初に記録されたのは 1728 年、Ephraim Chambers(1680?–1740)が編さんした Cyclopaedia, or Universal Dictionalry of Arts and Sciences の中であった。この中でアンドロイ ド は “an Automaton, in figure of a Man; which by virtue of certain Springs, & duly contrived, Walks, Speaks.(87)” と定義されている。ギリシア語の “andro-(人、男性)” と接尾語 “-oid(- のようなもの)” が組み合わさった “android” は、直訳すれば「人もどき」とできるだろうか。このサイクロペ ディアの中で「アンドロイド」の用例として用いられている “Albertus Magnus, is recorded as having made an Androides” の中に出てくる Albertus Magnus(1193?–1280)は 13 世紀に錬金術を実践し検証した神学者のこと で、この用例の中での「アンドロイド」は錬金術の「ホムンクルス」と同意義で用いられているようだ*1

(中略)

1818 年に発行された Mary Wollstonecraft Shelley(1797–1851)によるゴ シック小説 Frankenstein では前述のような既存の人造人間観に少しずつ変 化が表れてきたのを見いだすことが出来る。Frankenstein が発表されてから 約半世紀後、「アンドロイド」の言葉が生まれてから約 1 世紀半後の 1886 年、フランスの風刺作家 Villiers de l’Isle-Adam(1838–1889)による小説 L’Ève Future(『未来のイヴ』、Eve of the Future Eden)が誕生、小説に於いて 初めて「アンドロイド」がテーマとして扱われるようになった。L’Ève future では、「理想(HADALY)」というラテン語のを持った完璧なるアンドロイ ドによって、かつての「劣等人間」では為しえなかった、近代社会におけ る新しい象徴を「人造人間」から見いだすことに成功している。

ここで言及されている オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダンAuguste Villiers de l'Isle-Adam, 1838〜1889、フランス語) の "L'Ève future" "The Future Eve" 「未来のイヴ」(1886) *2 に登場するアンドロイド Hadaly(ハダリー)が人工知能のイメージに最も近いようです。 Wikipedia(日本語版)によると、この小説のあらすじは次のとおり。

ヴィーナスの化身のごとき美貌をもちながら、卑俗な魂をもった歌姫アリシヤ。青年貴族エワルドはアリシヤを恋人にしながら、彼女の知性の欠如に絶望し、苦悩した。 エディソン博士はエワルドのためにアリシヤの美を写した人造人間ハダリーを創造する。

その後「エディソン博士が(エワルドのために作った)ハダリーにエワルドは当初馴染めなかったのですが、 エディソン博士の努力によりエワルドも少しずつ心を開いていく」というお話です。

この小説では、エディソン博士の語りを借りて アンドロイドの構造や仕組みに言及することが物語の1つの軸になっていることから ヴェルヌの作法を踏襲している作品といえます。 リラダンもヴェルヌと同時期に活動し、やはりポーの心酔者だったらしいので、 ヴェルヌと同じようにポーの作品の成り立ちや手法をなぞったのかも知れません。

実はこの筋書き、ギリシャ神話の "Pygmalion (mythology)"「ピュグマリオーン」 がモチーフになっているようです。こちらのあらすじは…

現実の女性に失望していたピュグマリオーンは、あるとき自ら理想の女性・ガラテアを彫刻した。 その像を見ているうちにガラテアが服を着ていないことを恥ずかしいと思い始め、服を彫り入れる。 そのうち彼は自らの彫刻に恋をするようになる。 さらに彼は食事を用意したり話しかけたりするようになり、それが人間になることを願った。 その彫像から離れないようになり次第に衰弱していく姿を見かねたアプロディーテーがその願いを容れて彫像に生命を与え、ピュグマリオーンはそれを妻に迎えた。

とのこと。そういえば、以前僕も 傾聴対話プログラムELIZAの名前の由来を紹介 する際、この神話を取り上げたことがあります。 19世紀末から20世紀初頭に活躍した劇作家 ジョージ・バーナード・ショーGeorge Bernard Shaw, 1856〜1950) の 「ピグマリオン」(1913) に登場する イライザ・ドゥーリトル が、このブログの主役(のはず)の ELIZA の名前の由来だと紹介しました。

en.wikipedia.org

バーナード・ショーリラダンより少し遅い19世紀から20世紀へと跨いで活躍した劇作家ですが、 同一のギリシャ神話をモチーフとする両者の手による2つの作品と比べると、 富豪と貧者の関係へと落とし込まれているバーナード・ショーの作品では「世間ではありがちな話」と違和感なく受け止めてしまうのに対し、 SFの設定を用いて語られているリラダンの作品では耽美的でその何とも言えない落ち着かない感じがより強調されている気がしてしまいます。 よく言われるフランス人の理想主義とイギリス人の現実主義の対比となどと考えてしまいがちです。

が、そもそもモチーフとなったピュグマリオーンは「望み通りの人間を作り出す」というアイデアは、今日の デザイナーベビーDesigner baby) などと共通する倫理的な問題を内包している訳で、 やはり「自分が思い描く人を伴侶に得たい」という欲求は、人間の普遍的な願望の1つ何でしょうねぇ。 それ故、ピュグマリオーンが提示する命題は今日でも古びることのない永遠のテーマとなるのでしょう。 AIブームの昨今、現在に設定を移したドラマや演劇が制作されてるかも?

ともあれ…

ヴェルヌやリラダンの時代の作品にはSFと理想主義との相性の良さを物語る(エレガントな)例が多いような気がします。


世紀末の様相

一方、時代が少し過ぎてウェルズやバーナード・ショーの時代になってくると社会はもう少し世知がなくなってきます。前回 (後編その2) でも紹介したように、19世紀中頃に産業革命による工業化を達成したイギリスやフランスの都市には豊かさを求めて多くの人々が押し寄せました。 そこから数十年が経過すると都市は多くの人々で膨れ上がり大都市へと変貌していきました。 富の格差も広がり、光と影がくっきりしているヴィクトリア朝の時代、 我々がよく知るシャーロック・ホームズの世界が徐々に形成されたと僕は理解しています。

そういう社会においてウェルズやバーナード・ショーは文化面での担い手として台頭したのだと思います。 彼らはいずれもイギリスで作家として有名になり、その後は政治など他のさまざまな分野でも活躍しました。 いわゆる「文化人枠」のフィールドに活動の幅を広げたわけです。 そこには大衆の支持を受け商業的に成功した文筆家に特有の悩みもあった。 彼らの作品が大衆文学とされ、従来の純文学よりも一段低く見られていることにコンプレックスを抱いていた人が多かったようです。

国家レベルで見た19世紀末は、欧州列強による帝国主義の社会秩序の崩壊が始まりつつある時代でした。 所得の格差が社会問題となり、 カール・マルクス の 『資本論』 が登場して「資本家による労働者の搾取」が叫ばれる、 社会主義共産主義などの社会思想が社会変革の原動力となり、 産業革命と共に生まれた資本主義との対峙の激しさが増していました *3


舞台装置としてのサイエンス・フィクション

社会の価値観が大きく揺れ動いた激動のこの時代にあって、 SFを新しい価値観を効果的に表現する舞台装置として活用する作品も登場して来ます。

20世紀初頭の「人間が創造した知的な存在」が登場するSF作品といえば、「ロボット」という言葉を生み出した カレル・チャペックKarel Čapek, 1890〜1938) の戯曲 "R.U.R."「R.U.R.」(1920) は外せないでしょう。もっとも、この作品は2つの世界大戦の間(1919〜1939)のモダニズムの時代の 「従来の19世紀芸術に対して、伝統的な枠組にとらわれない表現を追求した」 世相が反映された「ロボットが人間に叛逆を起こす物語」*4がメインテーマで、人間と(擬人的な)ロボットの対峙が物語の軸でしたから、 ロボットの知性には必ずしもフォーカスされていないように思います。

それはサイレント映画のSF作品である フリッツ・ラングFritz Lang, 1890〜1976)の "Metropolis"「メトロポリス」(1927) でも同様です。この作品に登場するアンドロイドのマリアは、善玉である人間のマリアのコピーとして作られ、最下層の労働者を扇動する悪玉として描かれました。

en.wikipedia.org

映像作品に初めて登場したアンドロイドとして、マリアの優れた造形は今日でも非常に高い評価を得ていますが、 サイレント映画だけにアンドロイドに関する描写が映像任せになってしまっているのが惜しい気がします。


以上、本稿では19世紀に出版されたアンドロイド(≒人工知能)が登場する小説『未来のイヴ』を中心に紹介しました。 工学系の人間である僕はどうしてもこの小説のようなヴェルヌの作法に基づく作品が本物のSFだと思い込みたい向きがあるのですが、 それでも『R.U.R.』のロボットや『メトロポリス』のマリアには魅力を感じてしまうのが正直なところです。 この2作品には隠された意図(例えば政治的な)あるのか?という事には読者ごとのそれぞれの見解があるのだと思います。

僕自身が本稿を執筆していて強く感じたのは、前回 (後編その2) 紹介した『ウェルズの法則』つまり「どんなストーリーもSFに仕立てることができる」という作法は ちょっと悪魔的だなぁということでした。作者の作品に込めた意図がどうあれ、 SFにはその作品を魅惑的に変えるフレーバーみたいなところがあるって事ですからねぇ。 次回は後編その1で扱った20世紀のアメリカのSFシーンをさらに掘り下げます。


序章 後編その4に続く

*1:ここで語られている古い辞書の原本はこちらにあります。

*2:この小説は最初の日本語訳が 1937 年(昭和12年)に発表されて以来、 日本の仏文学の研究者や愛好家の間ではカルト的人気のある隠れたビッグタイトルなんだそうです。

そもそも「没落した貴族の末裔」で「赤貧に喘ぐ短い人生を送った」著者の経歴から芝居がかってますからねぇ。 本来は彼の姓はヴィリエ(Villiers)で、欧米ではそのように引用されるのですが、 日本では(何故か)リラダン(l'Isle-Adam)で知られています。 作品について検索等を行うときはご注意ください。(以降、日本の諸氏に敬意を払い『リラダン』と書きます)

また『未来のイヴ』も、岩波文庫に収蔵された渡辺一夫の訳による上下2巻(赤 541-1、赤 541-2)と、 創元ライブラリに収蔵さている斎藤磯雄の訳の版、 さらに光文社古典新訳文庫に収蔵されている高野優の訳の版の3種類の文庫書が入手できます。 しかも、うしろの2つの版は今でも新書で(その場で)買えたので驚異のロングセラーと言えるでしょう。 今回、斎藤訳と高野訳を手に入れたのですが、 文語体の斎藤訳は流石に手こずったので、 主に高野訳のお世話になりました。 とはいえ、そもそも原書が長編なので、全部読んでるわけには行かず、拾い読みで本稿は書いてます。

リラダンは概ねヴェルヌと同じ時代の人で、同じようにエドガー・アラン・ポーに影響を受けたそうですから、 SF小説としては基本的にポー・ヴェルヌの作法に従っているように見えます。が、もっと耽美的な印象の作品です。

驚いたことに、押井守のアニメ映画 『イノセンス』 の冒頭に出てくる次の語りはこの小説からの引用なんだそうです。

われわれの神々もわれわれの希望も、 もはやただ科学的なものでしかないとすれば、 われわれの愛もまた 科学的であっていけないいわれがありましょうか

東京創元社|イノセンス・未来のイヴ

さらに松岡正剛氏の千夜千冊でも紹介されています。

1000ya.isis.ne.jp

カルト的内容(と言ったら怒られるのかもしれないが)で、僕にはさっぱりわからない話ばかりでしたが(笑)

ともあれ、序章の決着がついたら、落ち着いてしっかり読み直したい一冊です。

*3:ベルリンの壁が崩壊する社会をリアルタイムで経験した僕には 長らく「共産主義は古びた社会思想だ」と見えていたのですが、 今日、所得格差の問題が顕在化するにつれ、 この問題の根っこは普遍的なのだなぁ…と感じます。

もっとも、かつてのソビエト連邦などの社会主義国家は、 富を資本家から剥奪して国家指導者に移し替えただけで、 所得格差問題の抜本解決には全く寄与しなかったと考えているので、 旧来の社会主義運動には個人的に全く期待できないんですがね。

*4:タツノコプロのアニメ「新造人間キャシャーン」 の世界観を思い出します。