アラン・チューリングの戦時の最大の成果は何だったのか?

What was Alan Turing's greatest wartime achievement?


2020/08/05
藤田昭人


このところアラン・チューリングに関する話題に執着してますけども…

チューリングのネタもまたまた底無し沼でして、 「本稿で一旦区切りを付けよう」と考えて執筆に取り掛かったのですが、 まとめられずにボヤボヤしている間に1ヶ月経ってしまった と言ったところです。「かくなる上は…」と力づくで書いてるので 今ひとつの内容かもしれませんが、よろしくお付き合いください。

さて…

前回 はNHKの人気ドキュメンタリーシリーズ「フランケンシュタインの誘惑」の アラン・チューリングの回にコメントする形で記事を書きました。 番組のトーク・パートの中で「1939年から1945年、チューリングが27歳から 33歳の研究者として最も生産性の高い年齢の期間の業績を封印されるのは、 研究者個人としては致命的な打撃を受ける」との発言がありました。 でもその研究成果については…番組では暗号解読機 bombe の紹介ばかりで、 それ以上掘り下げられることはありませんでした。 本稿では、そこを掘り下げたいと思います。


アラン・チューリング・イヤー

話が少し飛んでしまいますが…

アラン・チューリングの生誕100周年だった2012年は アラン・チューリング・イヤー とされ、年間を通じてチューリングの業績を讃える様々なイベントが世界中で開催されました。 その最中、チューリングの誕生日の2ヶ月前の2012年4月、BBCは次のニュースを報道しました。

www.bbc.com

"Two 70-year-old papers by Alan Turing on the theory of code breaking have been released by the government's communications headquarters, GCHQ."

アラン・チューリングによる暗号解読理論に関する70年前の論文2本が、政府通信本部GCHQ)によって公開されました」

という地味な表現で始まるこの報道は、チューリングの様々な革新的な研究のうち 最後まで隠され続けた成果がとうとう公開されたことを報じたものです。 これ、もし70年前に明らかになっておればその後の世界に大きな影響を与えたかもしれない。 ひょっとしたらチューリング最大の研究成果だったのかもしれません。 なので、単に「暗号解読理論」(the theory of code breaking)などと 素っ気なく表現するあたりのマスコミのセンスはやはり英国ならでは?と思ってしまいます(笑)


エニグマの暗号解読について

今日ではチューリングの貢献がクローズアップされるエニグマの暗号解読ですが、 実はチューリングが手掛けるずーっと以前、1920年代からイギリスだけでなく フランスやポーランドでもエニグマの暗号解読は試みられてきました。 特にドイツと陸続きで隣接するフランスやポーランドにとって、 ドイツの軍用暗号は自国の死活に直結する問題でしたので多くの労力を注ぎ込んでいた事は想像に難くありません。 1932年、ポーランドの数学者であるマリアン・レイェフスキがエニグマの暗号解読に成功しました。

ja.wikipedia.org

レイェフスキはエニグマインジケーター を利用して暗号解読を行いました。エニグマを使って暗号文での通信を行うには 伝文ごとに送信側と受信側のエニグマのローターやプラグの設定を合わせる必要がありましたが、 その設定を示すのがインジケーター、ちょうど暗号メールメッセージに付与するパスワードみたいなものです。 レイェフスキは今日のパスワード・ハックとよく似た手法を使ってインジケーターを推測し、 暗号文の解読に成功したようです。しかし、この方法の弱点はドイツ軍がインジケーターの決定ルールを変更する度に、 解読方法をゼロから調べなければならないことで、それが「不安定な解読方法」と呼ばれた由縁のようです。

このようにエニグマの暗号解読には成功していたポーランドですが、 1939年9月にドイツとソ連に挟撃される形で一気に占領されてしまいました。 これが第2次世界大戦の始まりです。戦争が不回避な状況を事前に察知していたため、 1939年7月、ポーランドの暗号局はエニグマの暗号解読に関わる一切の情報を イギリスとフランスに対し開示しました。その中にはポーランドの手で復元した エニグマのクローン機 2台も含まれました*1。 ドイツとソ連によるポーランド占領後、レイェフスキたち暗号局の面々はフランスの ブルーノ暗号機関 に移って暗号解読の作業を続けました。 これはドイツがフランスに侵攻する1940年6月まで続けられました。

チューリングが政府暗号学校(GC&CS)に着任したのは、 ポーランド暗号局の情報開示が行われた時期と概ね重なります。 フランスの諜報機関がスパイ活動などで集めたエニグマに関する情報の断片、 さらにポーランド暗号局による解析結果などなど、 イギリスはこの時、これらの膨大は情報をまとめて手にすることができました。 いよいよ天才の出番でした。

インジケーターに大きく依存するレイェフスキの解読方法に懸念を持っていた イギリスの暗号解読のスタッフは、それとは異なるアプローチを採用しました。 今日 Crib-based decryptionクリブ 式暗号解読)と呼ばれる手法です。「クリブ」とは 「既知のもしくは想定されうる平文のサンプル」を意味する ブレッチリー・パークで使われた隠語だったそうです。 暗号化されたメッセージ本文に暗号文とそれに対応するクリブがわかっている断片を 付き合わせることで解読する、膨大な作業量を必要とするアプローチでした*2

このクリブを使って、エニグマメッセージに使用される可能性のある正しい設定 (すなわち、ローターの順番、ローターの設定、プラグボードの設定)を 機械的に探索するために作られたのが bombe でした。この機械はエニグマと等価な動作をするホイールを36個使って、 総当たり式に正しい設定を探ります。ホィールを3個1組で使う手法は、 レイェフスキが同じ目的で製作した bomba から拝借したアイデアです。 また、チューリングGC&CS に所属しているときにも渡米してますが、 その際にアメリカで開発されていた bombe を見て、次のように書き残しています。

The American Bombe programme was to produce 336 Bombes, one for each wheel order. I used to smile inwardly at the conception of Bombe hut routine implied by this programme, but thought that no particular purpose would be served by pointing out that we would not really use them in that way.

アメリカの bombe 計画は336個の bombe を生産することになっていた。 私はこのプログラムが暗示するbombeの hut ルーチンに内心微笑んでいたが、 目的は果たせないだろうと思いながら、 実際にはそういう使い方はしないだろうと指摘した。

この「全くわかっちゃいない」的なコメントもまた、 第2次世界大戦当時のイギリスとアメリカの技術格差を物語るエピソードでしょう*3

ちなみにWikipedia英語版には以下の「エニグマの暗号解読」というページが存在します。

en.wikipedia.org

エニグマについて、歴史的な事実を踏まえ、 技術的にどのような方法が使われたのかわかりやすく解説している、 初心者向けの暗号解読マニュアルのような内容です。 エニグマに関心のある高校生や大学生の皆さんにはお勧めのテキストでしょう。


チューリングが政府暗号学校(GC&CS)で挙げた5つの研究成果

アラン・チューリングといえば、一般には bombe の開発で知られているのではないでしょうか? 特徴的なホィールが無数に並ぶ筐体はやはり一般にも「絵になる」わかり易い成果ですから。

もっとも Wikipedia の「アラン・チューリング」のページの 「暗号解読」 の項によると、bombe はチューリングGC&CSで挙げた5つ研究成果のうちの ひとつ目なんだそうです。5つ研究成果を次にあげておきます。

  • ボンベ(Bombe) の設計
  • ドイツ海軍が使用するインジケーターの手順を推定する
  • バンベリスムス(Banburismus)の考案
  • チューリンジャー(Turingery)の考案
  • デリラ(Delilah)の設計

このうち最も注目すべきはバンベリスムスです。 Bombeでの暗号解析時間を圧縮するため、1940年ごろに考案されたこの解析手順は、 条件付き確率による逐次分析を使用して、最短でエニグマの正しい設定にたどり着く推測します。 分析手法以外で特筆すべき事柄として、推測の正しさを表す単位としてバン(ban)と呼ばれる 独自の指標を発明したことです。この単位は クロード・シャノン が1948年に発表した情報理論で定義した情報量の概念を先取りした概念だそうです。 また、チューリンジャーはバンベリスムスで確立した手法を応用して、 エニグマよりも暗号強度の高いローレンツ暗号を解読する手順です。


バンベリスムスとベイズ統計学

Wikipedia の「アラン・チューリング」のページでは、 バンベリスムス(およびチューリンジャー)について次のように紹介しています。

By using statistical techniques to optimise the trial of different possibilities in the code breaking process, Turing made an innovative contribution to the subject. He wrote two papers discussing mathematical approaches, titled The Applications of Probability to Cryptography[64] and Paper on Statistics of Repetitions,[65] which were of such value to GC&CS and its successor GCHQ that they were not released to the UK National Archives until April 2012, shortly before the centenary of his birth. A GCHQ mathematician, "who identified himself only as Richard," said at the time that the fact that the contents had been restricted for some 70 years demonstrated their importance, and their relevance to post-war cryptanalysis:[66]

統計的手法を用いて、コード解読手順における様々な可能性の試行を最適化することによって、チューリングはこの主題に革新的な貢献をした。彼は、数学的アプローチを論じた2つの論文「The Applications of Probability to Cryptography」(暗号への確率論の応用)と「Paper on Statistics of Repetions」(反復統計に関する論文) を執筆した。これらの論文はGC&CSとその後継者であるGCHQにとって価値があり、彼の生誕100周年の直前である2012年4月まで英国国立公文書館に公表されなかった。当時、GCHQの数学者は「彼は自分をリチャードとしか名乗らない」と語ったが、この内容が約70年間制限されていたという事実が、その重要性と戦後の暗号解読との関連性を示している。

冒頭で語ったチューリングの「最後まで隠された研究成果」とは、問題解決の方法として統計学的手法を活用することを語った論文でした。 すなわち、今日で言うデータ・サイエンス的な手法を使って、チューリングは80年前にドイツ軍の暗号解読に成功していたことになります。

ちなみに、この論文2篇はPDF化されたバージョンが arxiv からダウンロードできます。

arxiv.org

arxiv.org

では、チューリングが用いたされる統計的手法とはどんなものだったのでしょうか? 統計学の専門家の間ではチューリングの統計的手法は「ベイズ統計学」に分類されるとみなされているようです。 書籍『異端の統計学 ベイズ』 では、18世期に生まれた「ベイズの法則」がその後たどってきた歴史を紹介しています。

www.soshisha.com

同書は全編を通して、頻度主義者を相手に苦しい闘いを続けてきたベイズ学派の長い苦闘の歴史が語られています。 「客観性に欠けるが実用では役に立つ」ベイズ統計学の華々しい成果のひとつとして、 チューリングの暗号解読について第4章を丸々使って紹介していますが、 今日のベイズの隆盛の遠因となったパーソナルコンピュータの普及にチューニングが果たした役割や、 おそらく深いところでは密接に関連しているだろう人工知能とチューニングの関わりについて、 記述が見つけられないのは「これが統計学者の史観なんだろうなぁ…」と思ったりします。

書籍『異端の統計学 ベイズ』が語るチューリングの最後もまた悲劇的なのですが、 類書と幾分違うのは「チューリングが編み出した手法は暗号学の中で生き残った」としているところです。 もっとも、それがベイズ学派の苦闘に利することもなかったとしてます。 同書によればベイズ統計学の「決定的なブレークスルー」が登場するのは1989年あたり。 冷戦の終結した時期と重なります。これは単なる偶然ではないのかもしれませんね。


戦時中の研究成果についてチューリング自身はどのように考えていたのか?

ナチス・ドイツが降伏した途端、 ウィンストン・チャーチルGC&CSの研究成果を封印するように命じたそうですが、 この命令がコンピュータ・サイエンスの世界ではとんでもない機会損失となったことは間違いないでしょう。 結局、チューニングの成果は長いあいだ軍事技術の世界に独占されることになりました。 その長らく封印されていた最後の秘密が公開されるまでに70年間を要したという、 ある意味では大変気の長い話ではあります。

冒頭で紹介したBBCのニュース報道は次のような文章で終わります。

According to the GCHQ mathematician, who identified himself only as Richard, the papers detailed using "mathematical analysis to try and determine which are the more likely settings so that they can be tried as quickly as possible."

...

Richard said that GCHQ had now "squeezed the juice" out of the two papers and was "happy for them to be released into the public domain".

He added that the work of Bletchley Park was held in high regard by GCHQ. "I think we are very proud of the history of our organisation and like to think that we are their successors," he said.

GCHQの数学者で、自らをリチャードとだけ名乗った人物(チューリングのことのようです)によると、 論文の詳細は「可能な限り迅速に試すことができるように、 どちらがより可能性の高い設定であるかを決定しようとする数学的分析」 を使って書かれているという。

...

リチャードは、GCHQは現在、2つの論文から「ジュースを絞り出した」と述べ、 「パブリックドメインとしてリリースされることに満足している」と語った。

彼は「ブレッチリー・パークの仕事はGCHQによって高く評価されている」と付け加えた。 「私達は、私達の組織の歴史を非常に誇りに思っているし、私達が彼らの後継者だと思いたいと思っている」と彼は語っている。

この最後の部分をどのように解釈すべきかは悩ましい問題です。

というのも、1912年生まれのチューリングは、 中央集権国家による帝国主義の時代であった 19世期の価値観に影響を受け、大きく引きずっていたように想像するからです。 おそらく当時は国家への貢献を誇らしいと考える人は今よりずっと多かったでしょう。 第2次世界大戦中の軍事研究の当事者の行いについて 後世の価値観でもって断罪する輩は多いのですが、 彼らが生きた時代の社会通念を考慮しないのはフェアではないように僕は思うからです。 こういった歴史上の事実について、現在の科学者が「僕ならこのような研究には加担しない。 もし逃れようがなければサボタージュをする」などと答える例がありますが、 これは問題の本質を取り違えた短絡的で無責任な発言だと言わざる得ません。

実際、コロナ禍の真っ只中にある現在においては特にリアルな問題でしょう。 現在、医学や生理学の研究者はコロナ・ウィルスの正体を見極め、 その治療法を確立しようと賢明の努力をされていることでしょう。 人間の生死に関わる問題だけに時間との勝負になってるのだと思いますが、 故に多くの研究者が自らの研究成果を論文にまとめたら、 すぐにインターネットで公開して情報共有しておられる。 これは同時に事実上自らの研究成果をパブリックドメインとしていることになります。 研究者一個人の視点で見れば、これは戦時中のアラン・チューリングの立場と全く変わらないように思うのです。 個人にとって「起こってしまった戦争」は「突如発生したパンデミック」と何ら変わらない。 その渦中にあっては、誰もが問題解決のために自分に出来ることを努力するしかないのです。

そのように考えると、記事が語る「パブリックドメインとしてリリースされることに満足している」 とのセリフの背景には様々な思いが横たわっているように感じてしまうのです。

もっとも…

そこは浮世離れした変人としても知られていたチューリングのことですから、 このように世俗にまみれた事柄に頭を悩ますようなことは案外なかったのかもしれません。

著名なチューリング研究家であるアンドリュー・ホッジス(Andrew Hodges)によれば、 チューリング個人にとってブレッチリー・パークでの経験は、 当時の最先端の電子工学を学ぶ機会でもあったそうです。 彼は回路設計の方法を独学で習得したそうですが、 それは彼にとって、ケンブリッジ大学の時代には 夢想するしかなかったユニバーサル・マシンを 実現する方法を習得することに他ならなかったようです。

では、「万能機械」を更に発展させた「知能機械」を チューリングが構想するようになったのは何時ごろから何でしょうか?ホッジスは 論文 "Alan Turing and the Turing Test" の中で次のように語っています。

But in the period around 1941 when the immediate crisis of the Enigma problem was resolved, Turing began to discuss with colleagues at Bletchley Park the possibility of machines playing chess (Hodges, 1983). Chess-playing was in fact a civilian analogue of what they were doing in their secret military work, in which mechanical methods of great sophistication were outdoing some aspects of human intuition. It seems, taking the view as expressed in Hodges (1997, 2002), that Turing probably decided in about 1941 that the scope of computable operations was in fact sufficient to account for those mental operations apparently "non-mechanical" by the standards of ordinary language, and even the apparently uncomputable operations of truth recognition.

しかし、エニグマの問題の差し迫った危機が解決された1941年頃、チューリングはブレッチリー・パークで同僚とチェスをする機械(ホッジス、1983)の可能性について議論を始めた。チェスのプレイは、実は彼らが手掛けていた秘密の軍務の非軍事的な類似作業であり、高度に洗練された機械的手法が人間の直感の一部を凌駕していた。ホッジズ(1997、2002)が示した見解を考慮すると、どうやらチューリングはおそらく1941年頃、計算可能な操作の範囲でも通常の言語の基準では明らかに「機械的でない」と思われる精神的な操作を説明するのに実際には十分であると決めたのだろう。

あるいは、バンベリスムスが弾き出す「機械的でない」推測に 知性の片鱗を感じ取ったチューリングは その直感を検証するために「チェスをする機械」を構想し始めたのかもしれないですね。 そう考えると、後世の人間の憶測とは裏腹に、 チューリング個人にとってブレッチリー・パークでの日々は 彼自身のその後の未来に繋がる幾つかの確信を得られた、 案外実りの多い時間だったのかもかもしれません。

以上

*1:エニグマは元々商用で 一般に販売されているモデルもありましたし、 携帯できる野戦用の暗号機でもありましたので、 破棄された機器をかき集めると復元できたのでしょう。 これもポーランド暗号局の地道な努力の成果です。

*2:日本人である僕がこの話から連想するのは江戸時代の 杉田玄白 の 『解体新書』 の翻訳です。今日であれば Google が開発した Seq2Seq 基本的には同じアイデアなんだと思います。

*3:もちろん「チューリングが天才だったから」という反論もあるでしょうが、 同じような両国間でのエンジニアの基本的技術素養のギャップは、 原爆開発プロジェクトだった マンハッタン計画 でも、それは浮き彫りにされたと言われています。

例えば、長崎に投下されたプルトニウム型原爆に使われた 爆縮レンズ は長らくトップシークレットとされてきました。今日でもこの開発については ジョン・フォン・ノイマン の名前が語られることが多いのですが、 実はノイマンが手掛けたのは火薬の燃焼速度の理論計算だけ。 爆縮レンズの基本的なアイデアである燃焼速度の違う複数の火薬を使う手法を 最初に考えたのはドイツ人の理論物理学者である クラウス・フックス でした。

マンハッタン計画に参加したとあるアメリカ人科学者は後日 「プロジェクトでのアメリカ人科学者は大学を出たばかりの青二才といった様子だったが、 ヨーロッパからやってきた学者は正しく原子核研究のプロの研究者と呼べる人達で プロジェクトはたちまち彼らに主導されることとなった」と語ったとか。

実際、アメリカにとって第2次世界大戦は、 当時の最先端技術を効率よく習得する機会でもあったことは否めません。 第2次大戦後、プロ研究者たちは国力低下により母国での職を失い、 アメリカの誘いに乗って大西洋へ渡る人たちが多数いたそうです。 彼らが現在のアメリカの技術優位に大きく貢献したことは間違いなさそうです。

この当時のヨーロッパ諸国とアメリカとの先端技術をめぐる関係は、 現在のアメリカと中国とのテクノロジーに関する関係を彷彿させますね。