遅ればせながら、序文めいたものを…前編
藤田昭人
ちょこっとだけ書こうとしたら結構長くなったので、
1回分としてまとめることにしました。
GWスペシャルって事で…
僕が「ELIZA本」と呼んでいるこのシリーズの読み物パートは、いきなり「ダートマス会議」だとか「Project MAC」だとか、情報の専門家、それも歴史オタクでないとわからないようなトピックしか書いてないですね。すいません。僕的には一応、このシリーズは情報技術史、特に ELIZA という対話プログラムを軸に人工知能と呼ばれる技術について様々な側面(工学的だとか、社会学的だとか)を語ろうとしてます。なので、ここではELIZAが生まれるまでの時代に簡単に俯瞰しておきたいと思います。
20世紀における情報技術の立ち位置
計算器というと有史以来の長い技術開発の歴史があるのですが、その計算する機械の作り方だけでなく、その使い方も含めた「情報」と呼ばれる技術分野が登場したのは20世紀になってからの事です。20世紀の100年の間、情報技術は絶え間なく急激に進化してきたのですが、その前半は「実用的なスピードで計算する機械」すなわちコンピュータ・ハードウェアの開発、その後半はその計算する機会を使って「コミュニケーションを行う機械」や「考える機械」の開発へと技術開発のフォーカスが移ってきた。その前半と後半の境界はだいたい 1960 年あたりではないかと僕は考えています。
そもそも20世紀は、情報技術に限らず、さまざまな科学技術が飛躍的に向上した時代でした。 そこにはこの世紀に起こった2つの世界大戦の影響が大きかった事は事実でしょう。 飛行機が短期間に実用レベルの技術となった理由は第1次世界大戦において新兵器として戦場に投入されたことが理由でしょう。 また(その是非はともかく)原子爆弾が第2次世界大戦における最大の科学技術成果であることも否めません。 一般に、戦時における研究開発は国家や社会の存続に関わると問題と理解されることから、 実現性が見込みの薄い技術に対しても経済原則を無視した巨額の投資や専門家の大量投入が行われます。 未知の(アイデアがあるだけ)の黎明期にある研究グループにとっては、 研究活動一気に飛躍することができる好機となる事もまた自明でしょう。 改めて断るまでもなく20世紀の科学技術は軍事と両輪を為して進展してきました。
例えば、今日のデジタル・コンピュータの基礎を確立した(と言われている)ENIAC は、 太平洋戦争中の 1943 年にアメリカ陸軍の弾道研究所との研究契約に基づき開発が始まりました。 契約での研究目標は砲撃射表の計算だったと言われています。 大砲から発射された砲弾は空中を飛翔してターゲットに命中させます。 ターゲットまでの距離が数キロにもなると、空気の影響が無視できなくなり、 ターゲットに正確に命中させるためには風向や風力、気温、湿度といったパラメータを考慮した複雑な空力計算が必要になります。 戦場において、大砲を発射させるたびにこのような複雑な計算をするわけにはいかないので、 当時の砲兵は予め計算しておいた早見表を携行していて、その表に基づいて大砲の発射角度(仰角)などを決めていました。その早見表が砲撃射表(射撃表)です。 保有する大砲全部についてあらゆる気象条件を想定する訳ですから、その計算量は膨大になります。 当時のコンピュータは「複雑な計算を大量に行う機械」と一般には理解されていたと言えます。
これ、今日、僕らがイメージするコンピュータと随分かけ離れているとは思いませんか? 現在の「コンピュータに対するイメージ」が確立したのは 1960 年代以降の事だと僕は考えています。 もちろん人工知能研究が目指す「考える機械」のコンセプトはそれよりずーっと前から存在してましたが、 その先進的なコンセプト、というよりは子供向けの寓話のようなストーリーに、 世間一般の理解が追いつき、というよりはある種の憧れから多くの開発投資を獲得するようになるには、 国際社会の大きな時代の流れでの紆余曲折があるように僕は思うのです。
1945〜1960:アメリカ大統領の憂鬱
まず、第2次世界大戦が終結した1945年からキューバ危機があった1962年までをひと括りにして語ります。
この時代、ひと言で言えば「ポスト世界大戦の時代」とだと思います。 英仏が覇権を握る19世紀から、2つの世界大戦を経て、 アメリカとソ連(現ロシア)の2つの超大国へと覇権の実態が移って行く最後の段階です。 科学技術は兵器と直結して語られる時代でした。
2つの世界大戦を制したアメリカの自信は相当なもので、 特に第2次世界大戦時にルーズベルト大統領の科学顧問で、多くの科学技術関連政策を推し進めてきた ヴァネヴァー・ブッシュ は、後任のトルーマン大統領への報告書『科学 ― その果てしなきフロンティア』で 積極的に科学技術を導入した第2次世界大戦での成功を強調し、 以降も軍産学の連携の継続を主張しました。
確かにアメリカは開戦時にはナチス・ドイツや日本よりも劣勢だった航空戦力を、 戦争を継続しながら立て直し、最強の爆撃機であった B29(開発には原子爆弾以上の金がかかったそうです) や原子爆弾の開発に成功し、文字どうりのスーパーパワーを手にした訳ですから、自信を持つのは当然でしょう。 ですが、その自信の証左であったはずのスーパーパワーが この時代にアメリカ大統領の憂鬱のタネに変貌します。 次の3つの想定外があったのだと僕は理解しています。
2回の原爆投下が日本の降伏に結びついたという理解から当初は肯定的な意見が多かった核兵器ですが、 その実相が明らかになるにしたがって核兵器に対する世論は変化していったようです。 特に原爆投下の1年後の 1946 年8月に雑誌 The New Yorker に掲載された記事 "Hiroshima" は衝撃的でした。これはピューリッツァー賞受賞作家である ジョン・ハーシー が降伏直後の広島に出向き被災者からのインタービューに基づいて執筆した記事で、 被爆者の視点で原爆投下を語る最初の報道記事でした。 GHQの検閲を掻い潜って出版された超一級のスクープでもありました。 当時、アメリカの占領下にあった日本にはこの記事は全く伝えられず、 その存在を日本人が知るのはずっと後のことだったと言います。
一説によれば、原爆の開発計画
(マンハッタン計画)
をルーズベルト大統領に進言したアインシュタインはこの記事が掲載された The New Yorker を1000部も取り寄せ周囲の物理学者などに配りまくったとか。
マンハッタン計画に参加した科学者も含め、この記事は核兵器の功罪について語る深い議論の呼び水となり、また今日まで続く核廃絶運動の起点ともなっています。
アメリカの軍事関係者にとって、これは第2次世界大戦中には許容された
最先端科学技術の軍事活用が大きく制限されることを意味していました。
* ソ連(ソビエト連邦、現ロシア)が早期に核兵器の開発に成功したこと
第2次世界大戦後、対立を深めていたソ連が 1949 年に原子爆弾による核実験に成功しました。 これにより世界を二分する東西陣営による冷戦は決定的になり、米ソによる核開発競争が始まります。 当時のトルーマン大統領率いるアメリカ政府は、 ソ連がこれほど早くに原爆開発に成功するとは考えてなかったでしょう。 それは彼らは原子爆弾の開発に関する真相を十分に理解してなかったからだと思います。
これは「何故、アメリカが最初の核保有国に成り得たのか?」という質問に置き換える事ができます。 実は、我々が知るマンハッタン計画は原子爆弾を製造するプロジェクトでしかなく、 原子爆弾の製造の可能性を検証しドイツが既に着手している兆候を調べ上げた チューブ・アロイズ と呼ばれるイギリスの核兵器開発計画が先行していた事が今日ではわかっています。これらの情報も把握して整理すると、 原子爆弾の製造を企画・検討したのはナチスドイツによって祖国を追われたユダヤ系ドイツ人やフランス人などの亡命科学者のグループであり、 その動機はナチスドイツが原子爆弾を独占的に保有すること恐れたからでした。 彼らからの提案を受け、その重要性を理解したイギリスのチャーチルはチューブ・アロイズを組織しましたが、 抑止力としての原子爆弾を製造するための資金と施設(当時のイギリス本国は既にドイツの空襲により大きな打撃を受けていました)を求めて 極秘裏にアメリカのルーズベルトに参加を求めたというのが原子爆弾の開発の真相だったようです。 ルーズベルトはチャーチルの誘いに乗って原子爆弾の製造を引き受けるわけですが、 この計画を議会の承認を得る事なく、ヴァネヴァー・ブッシュなどの側近のみが知る極秘のプロジェクトとして進めました。
その後、亡命科学者のグループのメンバーの多くは科学者としてマンハッタン計画に参加しましたが、 その中にはアメリカが原子爆弾を独占的に保有する事を危惧する者も存在し、 その研究内容をソ連に自発的にリークする事が起こりました。 例えば、通常火薬を使って核物質を超臨界状態にするために必要な 爆縮レンズ の構造はトップ・シークレットの扱いでしたが、その発案者である クラウス・フックス 自身がソ連にリークをしました。 ソ連が早期に原子爆弾を手にできたのはこのようなスパイ行為に追うところが大きいと言われています。
アメリカにとって一番大きな打撃はルーズベルトが原子爆弾の完成を見る事なく急逝した事でしょう。 後任のトルーマンは、大統領への就任早々原爆の使用について判断を求められますが、 軍関係者の強硬論に引きずられるようにして広島と長崎への原爆投下を承認してしまったようです。 彼にとってはこれが最初のつまずきになったのかもしれません。 さらに不運なことにイギリスのチャーチルも大戦直後の総選挙で敗北して首相の座を終われたため、 原子爆弾の開発の経緯や開発体制の処遇、 さらにその後健在化してくるであろう核兵器の国際管理の問題など、 国際関係の難しい問題について適切な視点を指南してくれる相談役も失いました。 その後も視野の狭い国益重視の考え方に固執して下手を連発する羽目になりました。 その結果、ライバルのソ連には5年足らずで追いつかれ、核兵器開発競争に追い込まれることになりました。
Wikipediaの 「歴史上重要な核実験」 を次に引用します。
年月日 | 名称(実験名) | 核出力 (kt) | 実施国 | 重要性 |
---|---|---|---|---|
1945/7/16 | ガジェット(トリニティ実験) | 19 | アメリカ | 人類史上初の原子爆弾実験 |
1945/8/6 | リトルボーイ | 15 | アメリカ | 人類史上最初の実戦使用(広島市への原子爆弾投下) |
1945/8/9 | ファットマン | 21 | アメリカ | 人類史上最後の実戦使用(長崎市への原子爆弾投下) |
1949/8/29 | RDS-1(ジョー1) | 22 | ソビエト | ソビエト連邦による初の原子爆弾 |
1952/10/3 | ハリケーン | 25 | イギリス | イギリスによる初の原子爆弾 |
1952/11/1 | アイビー マイク | 10,400 | アメリカ | 人類史上初の多段階熱核反応兵器実験(非実用兵器) |
1953/8/12 | RDS-6(ジョー4) | 400 | ソビエト | ソビエト連邦による初の水爆(非多段階、実用兵器) |
1954/3/1 | キャッスル ブラボー | 15,000 | アメリカ | 水爆(人類史上初の多段階、実用兵器)、放射性降下物事故(第五福竜丸が被曝) |
1955/11/22 | RDS-37 | 1,600 | ソビエト | 水爆(ソビエト連邦による初の多段階、実用兵器) |
1957/11/8 | グラップル X | 1,800 | イギリス | 水爆(イギリスによる初めて成功した多段階) |
1960/2/13 | ジェルボアーズ・ブルー | 70 | フランス | フランスによる初の原子爆弾 |
1961/10/31 | ツァーリ・ボンバ | 50,000 | ソビエト | 人類史上最大の水爆実験 |
1964/10/16 | 596 | 22 | 中国 | 中国による初の原子爆弾実験 |
1967/6/17 | 実験 No. 6 | 3,300 | 中国 | 中国による初の水爆実験 |
1968/8/24 | カノープス | 2,600 | フランス | フランスによる初の水爆実験 |
1974/5/18 | 微笑むブッダ | 12 | インド | インドによる初の核分裂爆発実験 |
1998/5/11 | シャクティ I | 43 | インド | インドによる初の潜在核融合増幅兵器実験 |
1998/5/11 | シャクティ II | 12 | インド | インドによる初の原子爆弾実験 |
1998/5/28 | チャガイ-I | 9-12? | パキスタン | パキスタンによる初の原子爆弾実験 |
2006/10/9 | 北朝鮮の核実験 | 1.5-15? | 北朝鮮 | 北朝鮮による初の原子爆弾実験 |
2010/11/18 | ポルックス | ? | アメリカ | アメリカによる「Zマシン」と呼ばれる装置を使った初の臨界前核実験 |
2013/2/12 | 北朝鮮の核実験 | 10-45? | 北朝鮮 | 北朝鮮による初の強化原爆実験? |
2016/1/6 | 北朝鮮の核実験 | 10? | 北朝鮮 | 北朝鮮による初の水素爆弾実験(懐疑的な意見もある) |
1945年のアメリカの原爆投下以来、1940〜1950年代は米ソの核開発競争がもっとも加熱した時代でもありました。1961年、ソ連の ツァーリ・ボンバ まで核実験は拡大して行きます。この実験は ベルリンの壁 が建設されたベルリン危機や キューバ危機 に先立って行われたものですが、この時点に至って核兵器は、敵対するソ連からの恫喝手段として使われることになりました。
* 宇宙開発ではソ連に先行されていることが露呈してしまったこと
宇宙開発(という名前のロケット開発)もまた米ソの開発競争のターゲットだった事はみなさんよくご存知でしょう。 1945年の時点ではナチス・ドイツのV2が最も完成されていた事も有名です。 米ソ両者の競争はドイツ降伏後のV2関連の技術者と資産の収奪から始まったと言って良いようです。 ソ連がV2を模倣する事によりロケット開発を始めたのに対し、アメリカは既存の開発成果にV2のノウハウを取り込むことを試みていたようです。 もっとも、V2を設計・製造したフォン・ブラウンを始めとするドイツ人技術者チームがいるアメリカが、この競争では優位と信じられていました。 しかし、ソ連が1957年にスプートニク1号で世界初の人工衛星の打ち上げに成功した事からその後は波乱の展開となりました。 世に言うスプートニク・ショックです。
そもそも1957年は国際学術連合会議が制定した国際地球観測年(正確には1957年7月1日から 58年 12月 31日までの 18ヵ月間)にあたり、 地球物理学現象(地震,重力,氷河,気象,海洋,地磁気,オーロラ,大気光,電離層,宇宙線,放射能,太陽活動)を観測する国際協同事業が企画され 発表されました。新たな観測手段としてロケットや人工衛星の活用も期待されたのです。
1955年7月29日にアメリカは国際貢献の一環として、国際地球観測年の期間中に地球を周回する小型衛星を打ち上げる意向を発表しました。 その4日後、国際宇宙飛行連盟の国際会議においてソ連の科学者レオニード・セドフがソ連も近い未来に衛星を打ち上げる意向である事を発言しました。 当時の西側諸国だけでなく東側諸国からの参加できるようになったのは1953年にソ連のスターリンが死去したからだと言われています。 アメリカのトルーマンも1952年に大統領職を退任し、冷戦構造を作り出した当事者たちのリタイアにより、 東西の緊張は(表向きに一時的には)緩和の方向に向かいました。 純粋に学術的な活動である国際地球観測年は東西陣営の緊張緩和の梃子の役割を担いました。
もっとも、米ソにとってこれは(核兵器開発競争よりはかなりマシな)新たな戦い「宇宙開発競争」の幕開けを意味していました。 前掲の「歴史上重要な核実験」を見てもわかるように、破壊力で原子爆弾を遥かに凌ぐ水素爆弾が登場した1954〜1955には、 核兵器の開発競争はほぼ行き詰まりを迎えていました。特に1954年の米軍による キャッスル作戦 のうち、ビキニ環礁で行われた水爆実験 ブラボー実験 では見積もりの甘さより計画値の2.5倍の核出力が観測されました。 不十分な危険水域設定により第五福竜丸をはじめとする数百隻の漁船が被曝したうえ、ロンゲラップ環礁などにも死の灰の降灰があり2万人以上が被曝しました。 この史上最悪の被曝事故に至って、さすがのアメリカもどんな強弁も繰り出せる余地はなく、 以降、核兵器開発は抑制方向へと向かいます。 *1
さて、宇宙開発競争。第1ステージは国際地球観測年からの要請により人類初の人工衛星の打ち上げとなりました。 このレースの勝者は、みなさんよくご存知の通りソ連のスプートニク1号です。打ち上げは1957年10月4日、 衛星の軌道は遠地点約950km、近地点約230km、軌道傾斜角65°の楕円軌道であり、地球を96.2分で周回、 20MHzと40MHzの2つの周波数で、衛星内の温度情報を0.3秒ごとに発信しました。 バッテリの寿命により温度情報の発信は3週間程度稼働しましたが、その後も周回軌道を維持し、 打ち上げから92日後の1958年1月4日に大気圏に再突入して消滅しました。
対するアメリカ。1957年12月6日にヴァンガードTV3を打ち上げましたが、発射2秒後に爆発し失敗に終わりました。 このヴァンガードの失敗原因の詳細については多数の情報が出回っていますので割愛しますが、 要点としては以下のような状況にあったようです。
- それまでのアメリカの宇宙開発は陸軍、海軍、空軍が独立してロケット開発を進めていた
- 1955年に人工衛星打ち上げを目的としたヴァンガード・プロジェクトを立ち上げた際に3者から提案を求め、結局海軍案が採択された
- 海軍案が採択された理由は、その開発経緯が非軍事目的であったことが重視された
- 当初の計画では1957年9月の打ち上げを計画していたが、様々な遅れにより、スプートニク1号が打ち上げられた段階でテストが完了していたのは3段ロケットの第1段のみ
- にも関わらず、早期の打ち上げを求める圧力を受けた
その後、1958年1月31日にエクスプローラ1号の打ち上げに成功したので、 アメリカの「国際地球観測年の期間中に地球を周回する小型衛星を打ち上げる」公約は守られましたが、 世界中の注目を集めている中でのヴァンガードの打ち上げ失敗は「宇宙開発におけるアメリカの劣勢」を印象付けるには十分でした。
1回で終わらせるつもりだったのですが…書き始めたら全然終わらない。
とりあえず、平成のうちに公開したいので、まずはここまでとします。
続きは令和になってから…