「人工知能」か?それとも「知能機械」か?

The bad luck of Alan Turing.


2020/04/29
藤田昭人


巷では「STAY HOME」と叫ばれてますが、 みなさんいかがお過ごしでしょうか?

僕の場合、幸か不幸かELIZA本の執筆時間を融通しやすくなってる訳ですが…問題は他のところで発生してます。ひと言で言えば「アラン・チューリング問題」と言いましょうか?英国政府が長らく秘密にしていた、彼の革命的な研究成果が徐々に明らかになるに従って、情報分野の技術史はその都度書き換えられるはずなんですけども、その影響が大きすぎるため従来信じられて来た通史などと至るところで矛盾が発生しまうのです。

事実を淡々と書き連ねて行く、教科書のような書籍であれば影響を受けにくいのかもしれませんが、独自のストーリーを捻り出すところに特徴のある僕のスタイルの場合、通史と新事実がマーブル状に層を成してる状況は非常にありがたくないのです。さらに悶絶度合が深まる。

ということで…

ブログで執筆作業の憂さ晴らしをする事にしました。 ちょっと言い訳じみてる気もますが…


情報技術史の通説

日本人の我々が知る情報技術史は概ねアメリカのコンピュータ開発史と一致しているように思います。 その理由はたぶん日本の多くの大学にコンピュータ・サイエンスの学部が誕生したのが1980年代だったことと関係してるかと。 ちょうど太平洋を挟んだ日米でコンピュータ関連の熾烈な技術開発競争を繰り広げていた時期と重なります。

もっとも、今から思えば「喧嘩するほど仲が良い」関係だったかと。 アメリカが日本製の半導体に大幅な関税をかけたりね。 それで一番困ったのがアメリカのコンピュータ製造するベンチャー企業だったり。 日本での新製品発表会の際、ベンチャー企業の役員が 「メモリ最大容量はXXです…もっとも日本のテクノロジを使えば、すぐにこれの16倍になるんだけどね」 ポソっと語ったり。そう、東芝がワールドワイドで King of Laptop だった時代があったのです。 実際、エンジニアのレベルでは「この政策は一体誰が幸福になるんだろうか?」と素朴に思って困惑したものです。

…とまぁ、何やかんやあったけど、コンピュータに関する最先端情報がアメリカから大量に流れ込んでくる時代でもありました。 もちろん World Wide Web がなかった時代なので、情報の多くは書籍の形で流入しました。 必然的に(英語が堪能な)限られた人達経由で、多少偏りのある情報として。 こう言った状況だと特に歴史に関わるトピックに関しては不作為だけど意図的な無視が発生します。 例えば、世界初のデジタル・コンピュータは1946年の ENIAC だったとか、そこで実現されたプログラム・ストアド方式は ノイマン型 と呼ばれたとか…これは明らかに「アメリカのコンピュータ開発史」での話です。 が、コンピュータ・サイエンスの学科の設立を急ぐ日本では、 それがそのままコンピュータ教育に取り込まれ、日本での通史として定着しました。 今でも教科書の最初のほうで紹介されてますよね?


現在のデジタル・コンピュータの発明者は誰?

しかし Wikipedia のある今日、これらの情報はあまり正しくないことが容易に確認できます。

例えば、ドイツで世界初のデジタル・コンピュータといえば コンラッド・ツーゼ が第2次世界大戦中の1941年に稼働させた Z3 だったりします。 戦後、IBMが秘密裏にツーゼが取得した特許の使用許諾交渉を行ったことからも、 Z3 が先だったことは自明なのですが、ドイツが敗戦国であったからか、この事実は意図的に無視されました。

一方、イギリスはというと、かの有名な暗号機 エニグマ の暗号電文の解読のために、1940年に開発された Bombe もデジタル・コンピュータの要件を満たしていたようです。 設計者である アラン・チューリング は1936年に論文 "On computable numbers, with an application to the Entscheidungsproblem" において 機械による計算の数学モデルである チューリング・マシン を定義しています。 なので、デジタル・コンピュータの発明者は ジョン・フォン・ノイマン ではなくアラン・チューリングだと言っちゃえばわかりやすくなる訳ですが、 そこは誰かの忖度により ENIAC の地位が守られた訳です *1


アラン・チューリングの不運

僕がアラン・チューリングの存在を知ったのは1980年代の前半、まだ学生の頃だったと記憶しています。 その時の僕のチューリングに対する印象は「同性愛で破滅した天才科学者」と言ったものでした。 実は、夭折した天才といえば数学者の エヴァリスト・ガロア 、また同性愛というと童話 『幸福な王子』 で知られる作家の オスカー・ワイルド が想起されたので、てっきり19世紀の人物だと思い込んでいたのでした。

今となっては信じ難いことですが、 当時チューリング情報科学の一部の専門家の間で知られる伝説の存在で、 例えばACMチューリング賞は1966年に創設されましたが、 彼の名が語られるのは限られた場だけでのことだったのです。 そもそもコンピュータ自体が一般大衆には縁遠いSFまがいの機械でしたしね。

チューリングが広く一般に知られるようになったのは、 1974年に書籍 『The Ultra Secret 』 が出版されて、第2次世界大戦中に彼が所属していた暗号解読組織 Ultra が暴露されてからだと言われています。

Ultra remained strictly secret even after the war. Then in 1974, Winterbotham's book, The Ultra Secret, was published. This was the first book in English about Ultra, and it explained what Ultra was, and revealed Winterbotham's role, particularly with regard to the dissemination and use of Ultra.

後も厳重に秘密にされていた。そして1974年、ウィンターボサムの著書『The Ultra Secret』が出版された。 これは、Ultra について初めて英語で書かれた本で、Ultra とは何かを説明し、 特に Ultra の普及と利用に関するウィンターボサムの役割を明らかにしたものだ。

この本の著者 フレデリック・ウィリアム・ウィンターボサム は、第二次世界大戦中に Ultra の機密情報の流通を監督したイギリス空軍の将校だったそうです。「軍人でさえ暴露するのなら…」と受け止められたのかは定かではありませんが、これ以降、大戦中のブレッチリー・パーク界隈の暴露本が多数出版され、チューリングの実情が徐々に明らかになって行ったように思います。

1984年には、戯曲 『ブレイキング・ザ・コード』 ("Breaking the Code") が公演されました。日本では1986年に劇団四季が日本語版を公演しましたが、そのポスターの記憶が僕にもあります。もっとも、当時はエイズ禍が社会問題となり始めていた時期でしたので、やはり同性愛の方に注目が集まってしまったように思います。そもそも、英国政府が Ultra を事実と認めて無かったので、あくまでも噂話でしかなかった事は否めません。チューリングの大戦前の論文にあった「紙テープを読み取る機械のイラスト付きの抽象機械」 チューリングマシン の説明だけでは「なんのこっちゃ?」と思うのが関の山でした。

正直にいうと母国イギリスでのチューリング再評価の仔細は(まだ)詳しくないのですが、 彼の再評価が本格的に始まったのは1989年のベルリンの壁崩壊や冷戦終結以降の事だと僕は記憶しています。 最終的に、英国政府は2009年に ジョン・グラハム=カミング の請願要求を受け入れ、チューリングに対する 謝罪 を行いました。以来、チューリングは英国を守った英雄のひとりとして列せられることになりました。

今日ではチューリングの偉大な研究業績を細かく追いかけられる網羅的なアーカイブも多数存在し、 また彼自身が重要な研究対象として多くの注目を集めています。


Artificial Intelligence(人工知能)と Intelligent Machinery(知能機械)

もっとも、没後50年余り封印されていた文献が突如現れたとしたら、 技術史という観点では混乱が起きます。 特にチューリングの場合、事実上ほぼ独力でコンピューターサイエンスを作り上げた と言っても良いほどの広範な業績を残しているので、従来の通史に対するインパクトは計り知れません。 もちろん従来の通史を支持する方々もいる訳で、技術史に関する論争が想起される… 冒頭で僕がふれた「アラン・チューリング問題」とはそう言った論争をイメージしています。

例えば、Artificial Intelligence(人工知能)と Intelligent Machinery(知能機械)という言葉。 確かに日本語に翻訳して字面だけを眺めると両方とも同じことを意味しているように見えますし、 従来は「『知能機械』は『人工知能』を意味するチューリングの用語」だとされてきました。

実は「人工知能」という言葉は、1955年 ジョン・マッカーシーダートマス会議 のための助成金申請のために書いた企画書の中で初めて登場することは、以前 このブログ に書いた覚えがあります。一方「知能機械」はチューリングが 1948 年に発表した 論文 のタイトルでもあります。

もちろんマッカーシーチューリングの論文を知らないはずはなく、 新しい研究領域を創設するという彼と マービン・ミンスキー の野心に沿って、敢えて捻り出され耳馴染みのない新用語が「人工知能」だった訳です。 言い換えれば、この用語は技術的な実態の曖昧なキャッチフレーズともみなせます。


チューリングの「知能機械」の研究

一方「知能機械」の方はどうでしょう。

年号所属論文出典link
1936On computable numbers, with an application to the EntscheidungsproblemProceedings of the London Mathematical Society, Series 2, 42 (1936-1937), pp. 230-265[ANK]
1945Proposed electronic calculator[ANK]
1947Lecture on the automatic computing engine[ANK]
1948Intelligent machineryNational Physical Laboratory Report[ANK]
1950aComputing Machinery and IntelligenceMind 59: 433-460[ANK]
1950bProgrammers’ Handbook for Manchester Electronic ComputerComputing Machine Laboratory, University of Manchester[ANK]
1951aCan digital computers think?BBC Third Programme, 15 May 1951[ANK]
1951bIntelligent machinery, a heretical theory[ANK]
1952Can automatic calculating machines be said to think?BBC Third Programme, 14 and 23 Jan. 1952[ANK]
1953Chess

この表は 先月このブログで紹介した 書籍 『チューリングテストの解析』 に収録されている論文 "Turing’s Test: A Philosophical and Historical Guide" で引用されているチューリングの著作を列挙したものです。 この表からチューリングが一貫して「考える機械」の実現を目指していたことが窺い知れます。

後にジョン・マッカーシーは、ダートマス会議について次のように語っています。

www-formal.stanford.edu

The original idea of the proposal was that the participants would spend two months at Dartmouth working collectively on AI, and we hoped would make substantial advances. ... Two people who might have played important roles at Dartmouth were Alan Turing, who first uderstood that programming computers was the main way to realize AI, and John von Neumann. Turing had died in 1954, and by the summer of 1956 von Neumann was already ill from the cancer that killed him early in 1957.

...

What came out of Dartmouth?

I think the main thing was the concept of artificial intelligence as a branch of science. Just this inspired many people to pursue AI goals in their own ways.

 

当初の提案のアイデアは、参加者がダートマス大学で2ヶ月間、AIの研究に共同で取り組み、実質的な進歩を期待していたのですが、そうはいきませんでした。 ・・・ ダートマスで重要な役割を果たしたかもしれないと思われる二人の人物は、コンピュータをプログラミングすることがAIを実現するための主な方法であることを初めて知ったアラン・チューリングと、ジョン・フォン・ノイマンである。チューリングは1954年に亡くなり、1956年の夏には既にフォン・ノイマンは死の床にあり、翌1957年の初めに癌で亡くなりました。

・・・

ダートマスから何が出てきたのでしょうか?

主なものは、科学の一分野としての人工知能の概念だったと思います。これだけで多くの人が自分なりに『人工知能』の目標を追求するようになりました。


人工知能」か?それとも「知能機械」か?

マッカーシーのキャッチフレーズ「人工知能」は大成功を収めた訳ですが、 では、この用語は「知能機械」に書き換えるべきなんでしょうか?

僕はそのような意見を見かけたことはありません。 チューリング・テストのコンテストであるローブナー賞の 2002年の主催者であるニール・ビショップは、 ジョン・サンドマンのインタビューにおいて「人工知能」という用語について次のように語っています。

In the professional and academic circles the term Artificial Intelligence is passé. It is considered to be technically incorrect relative to the present day technology and the term has also picked up a strong Sci-Fi connotation.

専門家や学術界では「人工知能」という言葉は時代遅れのものとなっています。 それは現在の技術に関連して技術的に正しくないと考えられており、また、この用語は強いSF的な意味合いを持っています。

Artificial stupidity, Part 2 | Salon.com

ビショップがどういう立場の人物で、どのような背景の元にこの発言をしているのかはよくわかりませんが、 21世紀の今日、どうやらこの用語は前世紀の遺物として扱わなければならないのかもしれません。

以上

*1:ENIAC の実質的な開発者である ジョン・プレスパー・エッカートジョン・モークリー その後 ENIAC の特許を巡って、 アタナソフ&ベリー・コンピュータ(ABC) との 法廷闘争 に巻き込まれてしまいます。 ただ、エッカート&モークリーには同情すべきかもしれません。 そもそも彼らが特許取得に走ったのは、 彼らが ENIAC 開発の行ったペンシルバニア大学が彼らに発明の権利の譲渡を迫ったからです。

この種の特許をめぐる発明家の権利主張の争いは、古くは発明王 エジゾン や(真空管の)三極管を発明した リー・ド・フォレスト の生涯からもわかるように、 強欲とはアメリカ人の(それから中国人の)御家芸と言うべきなのかもしれません。