「スプートニク・ショック」〜遅ればせながら、序章めいたものを…(中編)
藤田昭人
「遅ればせながら、序文めいたものを…」 の続きを書こうと資料を読み返してみたのですが、これまた1回分で終わりそうに無い。 なので「スプートニク・ショック」と「アポロ計画」に分けます。 それから分量が増えすぎたので序文ではなく序章ってことで(笑)
現在の20代以下の皆さんには、概ね60年前の出来事である 「スプートニク・ショック」 は「歴史上の(しかもそれほど大事ではない)出来事」だと理解されているかもしれませんね。ですが、特に理系の学生、密かに人工衛星の打ち上げを目論んでいる航空宇宙工学の諸君、だけではなくインターネット関連で密かに目論見を抱える情報工学の諸君は事情を把握しておいた方が良い事件です。と言うのもその後、アポロ計画を皮切りにアメリカの宇宙開発計画を背をってきた NASA もインターネットを生み出した ARPA も、この事件を契機に設立された組織だからです。もう少し突っ込むとARPAとNASAはそもそも同じ目的を持って設立された独立した組織でした。拙著『Unix考古学』では「アイゼンハワー政権の混乱ぶりを示す…」とサラッと流す(お茶を濁すとも言う)解説をしたような記憶がありますが、今回再度調べてみたところ実はもっと根の深い背景があったことがわかりました。
…と言うことで「スプートニク・ショック」再考が本ページのお題です。
1945〜1960:アメリカ大統領の憂鬱(の続き)
前編の最後の引用から始めます。
対するアメリカ。1957年12月6日にヴァンガードTV3を打ち上げましたが、発射2秒後に爆発し失敗に終わりました。 このヴァンガードの失敗原因の詳細については多数の情報が出回っていますので割愛しますが、 要点としては以下のような状況にあったようです。
・それまでのアメリカの宇宙開発は陸軍、海軍、空軍が独立してロケット開発を進めていた
・1955年に人工衛星打ち上げを目的としたヴァンガード・プロジェクトを立ち上げた際に3者から提案を求め、結局海軍案が採択された
・海軍案が採択された理由は、その開発経緯が非軍事目的であったことが重視された当初の計画では1957年9月の打ち上げを計画していたが、様々な遅れにより、スプートニク1号が打ち上げられた段階でテストが完了していたのは3段ロケットの第1段のみ にも関わらず、早期の打ち上げを求める圧力を受けた その後、1958年1月31日にエクスプローラ1号の打ち上げに成功したので、 アメリカの「国際地球観測年の期間中に地球を周回する小型衛星を打ち上げる」公約は守られましたが、 世界中の注目を集めている中でのヴァンガードの打ち上げ失敗は「宇宙開発におけるアメリカの劣勢」を印象付けるには十分でした。
ソ連は人類初の人工衛星の打ち上げ出会ったスプートニク1号の成功に続き、 1957年11月3日には犬を乗せたスプートニク2号の打ち上げ成功と、 立て続けに成功させ「有人宇宙飛行に大きく近づいている」ことを猛烈にアピールしました。 この事実はアメリカのプライドを大きく傷つけました。当時、アメリカは ドワイト・D・アイゼンハワー の政権でしたが、(またもや)政権の無策ぶりを避難する声が高まったのでした。1952年の ハリー・S・トルーマン の退任を経ても尚「アメリカ大統領の憂鬱」はまだまだ続いていたのです。
ドワイト・D・アイゼンハワー
アイゼンハワーは1953年から1960年までの2期8年間大統領を務めました。元々は陸軍の軍人で、 ノルマンディー上陸作戦 の最高司令官を務めた将軍として、アメリカでは第2次世界大戦の英雄のひとりにも数えられています。 この時代の軍人と言うと、日本人には馴染みのあるGHQ最高司令官の ダグラス・マッカーサー に代表される武闘派のイメージを思い浮かべがちですが、 アイゼンハワーは交渉事に長けた温厚な実務派で、 その愛想の良い佇まいから国民的な人気があったそうです。 実は元々政治には無関心な人で、 大統領選に出馬するまでは支持政党が共和党なのか民主党なのかハッキリしなかった。 結局、共和党の候補になったのですが、 その理由が「ルーズベルト以来、長らく民主党から大統領が出ていたので、今度は共和党から」と語ったというのだから笑っちゃいます。 ちなみに、その1952年の大統領選挙での共和党の候補者指名では前述のマッカーサーと争うことになりました。 が、結果はアイゼンハワーの圧勝。その親しみ易さが国民の支持に結びついたと言われていますが、 トルーマン政権2期目ではエスカレートする一方の米ソ対立が朝鮮戦争(1950年〜1953年) *1 にまで至っており、 前編で紹介したようにソ連の核攻撃に怯える世論は、状況の沈静化と収束を担い得る人物を求めたようにも思います。
雪解け:冷戦 1953–1962
1953年に大統領に就任したアイゼンハワーが取り組んだ課題が朝鮮戦争の停戦交渉でした。 1951年4月のマッカーサー解任以来2年近くも38度線あたりで睨みあいが続いていた訳ですが、 1953年3月のスターリンの死去によってようやく休戦に向けて状況が動き始めたのでした。 言い換えれば、第2次世界大戦終了時の米ソの指導者ふたりが揃って退場し 両国の対立をエスカレートさせて来た要因が消えたことにより、 各々の後任であるアイゼンハワーと ニキータ・フルシチョフ によって表面上は「雪融け」と呼ばれる緊張緩和を基調とした米ソの関係改善が進み始めました。
もっとも、根深い相互不信がすぐに解きほぐされる訳もなく、 短気でエキセントリックな性格のフルシチョフは時に奇をてらった言動に出ました。 例えば、1959年にフルシチョフはソ連の指導者として初めてアメリカを公式訪問しましたが、 その際、警備上の理由によりディズニーランドの視察を拒絶されたことに腹を立て、 歓迎の晩餐会の席上で「楽しみにしてたのに…」とブチ切れたという子供じみたエピソードさえ語り継がれています。 もちろん、国家の指導者である彼はただの癇癪持ちというだけではなく 隙あらば揺さぶりをかけてくる狡猾さや抜け目なさも併せ持っていたので、 アイゼンハワー政権はその対応に振り回されっぱなしの防戦一方だったように見えました。 ひょっとしたら、フルシチョフは今日の北朝鮮の金正恩の突飛な言動のお手本になっているのかもしれません *2。
スプートニク打ち上げのタイミング
スプートニクの打ち上げもまたフルシチョフの政治的な揺さぶりの1つだったと、僕には思えてなりません。 なぜなら、1957年10月4日のスプートニク1号の打ち上げは、国防長官の チャールズ・E・ウィルソン が辞任した1957年10月8日の4日前だったからです。 ウィルソンはアイゼンハワーの2期目が始まった直後に辞任することを仄めかしてましたので、 ついつい「彼の退任前後に狙いを定めてスプートニク1号の打ち上げを行ったのでは?」と考えてしまいます。
実はウィルソンの前職はゼネラル・モーターズ(GM)の社長兼CEOでした *3。 アイゼンハワーが大企業経営者のウィルソンを国防長官に起用した理由は、 トルーマン時代には容認されていた国防関連省庁の放漫財政にメスを入れる事でした。 アメリカのGDPに対する国防関連予算の比率を次に示します。
https://en.wikipedia.org/wiki/United_States_Department_of_Defense#Budgetから引用
グラフのもっとも高いピークが第2次世界大戦のときの予算です。 そのすぐ右の小さな(が太い)ピークが朝鮮戦争のときの予算です。アイゼンハワー着任時、 アメリカはこの小さくて太いピークの山にいて「このまま予算が増え続けるとえらい事になる…」 というのが当時のアイゼンハワーとウィルソンの共通認識でした。 朝鮮戦争を終わらせたのに予算だけはいつまでも戦時体制のままって訳には行きませんしね。 つまり国防関連省庁の組織縮小と国防関連予算の圧縮がアイゼンハワー政権の中核的ミッションだった訳です。 (これが政権の主要政策じゃぁ、地味な政権になるのは必定ですよね?)
政権1期目は朝鮮戦争をさっさと終わらせ、その後はウィルソンが国防予算をゴリゴリ削っていくことになりました。 当然、現場の制服組からの猛反発があり、議論は「ポスト朝鮮戦争のアメリカ軍の役割は何か?」に波及し、 新戦略("New Look"と呼ばれていたそうです)を巡る政権 vs 制服組のバトルへと発展しました。 ウィルソンの辞任は新戦略の枠組みが大筋では固まったことを意味する、つまり 「今、やれることは全部やったので、残る制度化の事務作業は他の誰かにやってもらいたい」 ってことだったのではないかと僕は想像してます。
スプートニク・ショック
ソ連によるスプートニク1号の打ち上げ成功は、当時のアメリカにとってようやく固まりかけてきた米軍の新戦略を土台から大きく揺さぶる出来事だったと言えるでしょう。 というのも "New Look" 戦略は、核兵器を搭載した 戦略航空軍団 の役割を拡大することにより、通常兵力を大幅に削減して国防予算を抑制する事を柱の1つとしていたからです*4。 戦略航空軍団の主力兵器には大型の爆撃機が想定されてましたが、スプートニク1号を打ち上げた R-7 ロケット はミサイルに転用可能*5で、大型爆撃機をほぼ無効化してしまう能力を持っていました。 ソ連のミサイルに対抗することが期待された ヴァンガード・ロケット) が2度も打ち上げ失敗したことから、アメリカは大きく動揺しました。これが一般に知られる「スプートニク・ショック」です。
ヴァンガードの打ち上げ失敗
まずは「論より証拠」という事で1957年12月6日の Vanguard TV3 打ち上げの映像をご覧ください。
この映像や爆発時の写真がマスメディアによって世界中に広くバラ撒かれました。
雑誌 "TIME" の1958年1月6日号では "MAN OF THE YEAR 1957" にソ連のニキータ・フルシチョフを祭り上げる始末。
TIME Magazine -- U.S. Edition -- January 6, 1958 Vol. LXXI No. 1
この号のカバー・ストーリーの文面は次のとおり。 http://keyboardandrudder.blogspot.com/2017/10/apparently-we-have-caused-quite-stir.htmlから引用
The symbols of 1957 were two pale, clear streaks of light that slashed across the world's night skies and a Vanguard rocket toppling into a roiling mass of flame on a Florida beach.
[snip]
On any score 1957 was a year of retreat and disarray for the West. In 1957, under the orbits of a horned sphere and a half-ton tomb for a dead dog, the world's balance of power lurched and swung toward the free world's enemies. Unquestionably, in the deadly give and take of the cold war, the high score of the year belongs to Russia. And, unquestionably, the Man of the Year was Russia's stubby and bald, garrulous and brilliant ruler: Nikita Khrushchev.
つまり、アメリカはこれ以上にない恥をかかされたという訳です。 このようにフルシチョフが繰り出す揺さぶりは(子供じみた)分かりやすいものですが、 その内容ときたら相手の(想定外の)弱点を厳しく突くキッついものばかりです *6。
さらにアメリカは1958年2月5日の Vanguard TV3 Backup の打ち上げにも失敗し、恥の上塗りをする羽目になってしまいました。
その後(前編でも書いたように)ヴァンガード1号は1958年3月17日に打ち上げに成功し、 アメリカの「国際地球観測年の期間中に地球を周回する小型衛星を打ち上げる」公約は守られたのですが、 ヴァンガードのリベンジが成功した頃、アイゼンハワー政権は最初の失敗が引き金となって、 これまで進めてきた米軍の新戦略そのものを揺るがす政治的な事件に発展してしまい、 (野党の)民主党の厳しい突き上げを喰らっていました。 これが「スプートニク・ショック」の(あまり注目されることのない)本質だったと理解すべきでしょう。
ニール・H・マッケロイ
この難局に(颯爽と?)登場したのがウィルソンの後任 ニール・H・マッケロイ でした。
実は、この人物は在任期間が短かった事もあり、国防長官在任中に言及した文献がなかなか見つかりませんでした *7。 しぶとく調べ続けたところ、元在沖縄米軍海兵隊外交政策部次長の ロバート・D・エルドリッヂ 氏*8が 沖縄県公文書館研究紀要(第9号 2007年3月)に寄稿した論文 『戦後沖縄と日米関係のもう一つの側面 ― アメリカ政策決定者の個人文書等の紹介 (その2)』 が見つかりました。この論文ではマッケロイだけでなくアメリカの過去の国防関連閣僚の業績の概要が紹介されています。 マッケロイの項の全文を引用します。
ウィルソンの後任はマッケロイ (Neil H. McElroy) であった。 最初から2年しか務めないという条件で受理したマッケロイは、 57年10月9日に就任した。 マッケロイは、 「国防長官の仕事は、 アイゼンハワー大統領の防衛チームのキャプテン」 であるとその日述べた。 マッケロイはウィルソンと同じオハイオ州出身だが、 奨学生としてハーバード大学に行き、 経済学を学んだ。 シンシナティに本社をもっていたプロクター・アンド・ギャンブル (P&G) 社に25年に入り、 広告部に務めていた。 48年に社長となる。
国防長官に任命する前までは政府の経験が無かったが、 大統領主催の教育委員会 (55年から56年) の座長を務め、 大統領が彼の鋭さや実行力に感銘したという。 アイゼンハワーとダレス(John Foster Dulles) は依然として、 外交・安全保障政策を担っていたので、 国防長官が国防総省をマネージすることが大統領の期待だったようだ。 就任する5日前に、 ソ連が人工衛星のスプートニクを打ち上げた。 これは米国にとって大変ショッキングな出来事であり、 ソ連が米国との技術の差を縮めていることを意味した。 マッケロイはP&Gでは研究・開発に力を入れてきたが、 国防総省では、 同様にミサイルの研究、 開発などを進め、 予定どおり59年に辞任しP&Gに戻った。 72年に亡くなったマッケロイの個人文書は、 アイゼンハワー大統領図書館にある。 なお、 オーラル・ヒストリーも同図書館にある。
いずれも「前職はP&G」と書いてあるので、「えぇ〜、本当に?」と怪訝な気持ちで Procter & Gamble の社史を調べてみると…やっぱり、ありました。
"P&G -- A Company History: 1837-Today"
なんと彼の前職はあの洗剤メーカーの P&G の社長でした。さらに、この前歴が取っ掛かりになって次の書籍も見つかりました。
この本(以降、ハフナー本と呼びます)はインターネットの開発の舞台裏を扱っていますが、 この本の第1章 "The Fastest Million Dollars" の "A Research Haven"(研究の天国)には Advanced Research Projects Agency(ARPA) (高等研究計画局) 設立の経緯が(かなり詳細に)書いてありました。
これらの資料を元に、この国防長官としてはユニーク過ぎる経歴を持つ "Soapy Mac from Cinci-O" *9 をここで簡単に紹介します。まず、彼は ブランド・マーケティングの創始者 でマーケティングの世界では教科書に登場するような伝説のマーケッターでした。 ハフナー本によれば、マッケロイはさまざまなブランドの洗剤を売りまくって、社長に昇格したそうです。
By 1957, P&G was selling about a billion dollars' worth of Ivory, Oxydol, Joy, and Tide every year. He had perfected the strategy of promoting brand-name competition -- as if there were real differences -- between similar products made by the same company.
1957年までに、P&Gは毎年約10億ドル相当の Ivory(アイボリー)、Oxydol(オキシドール)、Joy(ジョイ)、Tide(タイド)を販売していた。 彼は、同じ会社で製造された類似の製品のあいだで(本当の違いがあるかのように)ブランド競争を促進するという戦略を完成させた。
それから、日本のテレビでは今日でもお昼頃に主婦層をターゲットにしたメロドラマ、俗に言う「昼メロ」が放送されていますが、 アメリカではラジオの時代から「ソープオペラ」と呼ばれ、親しまれていました。それを始めたのも彼。
The TV soap opera was McElroy's brainchild, about which he once said without apology, "The problem of improving literary taste is one for the schools. Soap operas sell lots of soap."
テレビドラマのソープオペラはMcElroyの発案であり、 以前、彼は(ドラマの質について)釈明することなく 「文学的な好みを改善することは学校の問題である。ソープオペラはたくさんの石鹸を売っている」と語った。
いや、個人的に長年「なんでソープが出てくるのか?」と不思議に思ってたのですが「石鹸屋が提供するメロドラマ」って事だったんですねぇ。 そういや日本の昼メロも提供するスポンサーは P&G か花王だったよなぁ…
大統領直轄の研究開発組織のアイデア
…と、まぁ、財界きっての切れ者で、稀代のアイデアマンだったマッケロイが、 スプートニク・ショックで苦境に追い込まれていたアイゼンハワー政権のために捻り出したアイデアが「大統領直轄の研究開発機関」だったのでした。
マッケロイが研究開発機関の新設の着想を持ったのは P&G の経営者としての知見によるものだったようです。
One aspect of his career at P&G that he was most proud of was the amount of money the company had devoted to research. He believed in the value of unfettered science, in its ability to produce remarkable, if not always predictable, results. McElroy and P&G had created a large "blue-sky" research laboratory, had funded it well, and rarely if ever pressured its scientists to justify their work. It was one of the first corporate research operations of its kind, one in which scientists were left to pursue almost anything and were well supported from the top.
P&G での彼のキャリアの一面は、会社が研究に費やした金額で、彼はそれを最も誇りに思っていた。 常に予期どおりになるものではないにしても、驚くべき結果を生み出すその可能性に、 彼は束縛されない科学の価値を信じていた。 McElroyとP&Gは、大規模な「青天井」の研究室を創設し、それに十分な資金を供給していた。 そして科学者に彼らの仕事を正当化するよう圧力をかけることはなかった。 科学者は概ねどのような研究課題であっても、それを追求するために雇用され、 トップからはその活動が十分に支持されることが、その種の第一の企業研究活動のひとつだった。
企業として独自のブランド戦略で目を引く P&G ですが、 その研究開発ではこのような姿勢で臨んでいたのは、彼らもまた化学工業を生業とする企業だったからでしょう。 20世紀(特に前半)はさまざまな科学技術が大きく発展し、その成果が一般の消費者の手元まで届くようになった時代ですが、 特に化学の分野ではその変化は顕著でした。その理由はやはり2つの世界大戦に負うところが大きいのです。 戦時にあっては化学工業は火薬を始めとするさまざま軍用化学製品の供給を求められ莫大な利益をあげますが、 平時にはその利益を使って画期的な民生製品を提供しました。 例えば、世界的な化学工業の大企業である デュポンは第1次世界大戦で大きく業績をあげましたが、 大戦後の1935年には ナイロン を発明しました。続く第2次世界大戦でも大きく業績をあげましたが、 その大戦後の1963年にはナイロンを使った パンティストッキング を製品化したことは著名な事例として、各所でよく紹介されます。
このマッケロイの「大統領直轄の研究開発組織」構想は大統領特別科学技術補佐官の ジェームズ・R・キリアン に支持されました*10。
Significant technological advances had come from a similar arrangement between universities and government during World War II:
radar, nuclear weapons, and large calculating machines resulted from what Killian called "the freewheeling methods of outstanding academic scientists and engineers who had always been free of any inhibiting regimentation and organization."第二次世界大戦中の大学と政府の間の同様の取り決めから、 キリアンが「常に抑制的な組織から解放されていた傑出した学術科学者やエンジニアの自由奔放な方法」と呼んだものから レーダー、核兵器、そして大型計算機が生まれ、著しい技術的進歩がもたらされた。
彼とその仲間である科学界の重鎮たちは軍が科学者たちを束縛しすぎる事、 その結果として1950年代の軍学連携が第2次世界大戦時ほどの研究成果をあげてないことに懸念を抱いていました。 当時の陸、海、空の3軍は軍の研究開発計画の予算を巡り、激しい競争を繰り広げていたが背景にあります*11。
The competition was reaching absurd new heights. Army, Navy and Air Force commanders treated Sputnik like the starting gun in a new race, each vying against the other for the biggest share of R&D spending.
競争は不条理な新たな高みに達していた。 陸軍、海軍、空軍の指揮官はスプートニクを新レースのスタートの合図のように扱い、研究開発支出の最大のシェアを狙って、それぞれが互いに争った。
マッケロイは、先進的な研究プロジェクトを推進する機関を一元化し、 連邦政府の研究開発予算を実質的に彼自身(と大統領)の監督下に置くことによって、 3軍の間の不毛な対立を抑制できるだろうと考えていました。 何故なら3軍とも時として利己的な主張と自らの計画の誇大宣伝のために大統領への直談判すら辞さない有様だったからです。
アイゼンハワー大統領も国防長官のこの提案が気に入ってました。というのも…
While the administration had larger plans in store -- the creation of the National Aeronautics and Space Administration (NASA), passage of a Defense Reorganization Act, establishment of the office of a Director of Defense Research and Engineering -- those things would take time. The Advanced Research Projects Agency concept was a response the president could point to immediately. And it would give him an agile R&D agency he and his scientists could call on in the future.
政権はより大きな計画 -- 米航空宇宙局(NASA)の創設、 国防再編法の可決、 国防研究開発部長オフィスの設立 -- を計画していたが、これには時間を要した。 しかし The Advanced Research Projects Agency(ARPA) のコンセプトは、大統領が直ちに支持することができた。 そしてそれは、大統領にとって、今後、科学者たちを招集できる機敏な R&D 機関を手にする事を意味した。
…という事だったのです。この「より大きな計画」は、のちに1958年の 国防総省再編法 などの一連の法案で実現されます。計画の注目すべき点は、ARPA 創設が検討される以前から NASA の創設が決まっていたことで、 それは政権がスプートニク・ショックや 「ミサイル・ギャップ論争」 への抜本的な対処策と考えていたことを示していると思います。 それに対し後から検討が始まった ARPA 創設を実際には先行させたことは、 スプートニクを巡って議会で続いているさまざまな論争、 アイゼンハワーが進めている国防組織再編へ反対する意見の早期沈静化を狙っていたことが考えられます。 ちなみに、ARPAとNASAの関係ですが、両者について1958年初頭のこの時期に作成された文献は見つけられていませんが、 その直後に ARPA 資金で NASA がロケット開発をしていたと言いますから(少なくともこの時点では) 政権は NASA を ARPA の下部組織に位置付ける事が考えていたようです。
ハフナー本ではマッケロイの ARPA の創設構想について軍から猛反発があったことが記されています。 が、結局、アイゼンハワーの力押しで新たな機関が設立されることになりました。
On January 7, 1958, Eisenhower sent a message to Congress requesting startup funds for the establishment of the Advanced Research Projects Agency. Two days later he drove the point home in his State of the Union Message. "I am not attempting today to pass judgment on the charges of harmful service rivalries. But one thing is sure. Whatever they are, America wants them stopped."
1958年1月7日、アイゼンハワーは議会に Advanced Research Projects Agency(ARPA) の設立のためのスタートアップ資金を要請した。 2日後、彼は自分の一般教書演説で ARPA を知らしめた。 「本日、私は軍の有害な対立について判断を下すことはしません。しかし、確かなことが1つあります。彼らが何であれ、アメリカは彼らが争いを止めることを望んでいます」
アイゼンハワー大統領はこの時、全ての将兵や異論のある議員を直ちに黙らせるために ARPA を必要としていたのでしょう *12。
Advanced Research Projects Agency (ARPA) の創設
ARPAの創設について Wikipedia では次のような説明が記述されています。
The creation of the Advanced Research Projects Agency (ARPA) was authorized by President Dwight D. Eisenhower in 1958 for the purpose of forming and executing research and development projects to expand the frontiers of technology and science, and able to reach far beyond immediate military requirements, the two relevant acts being the Supplemental Military Construction Authorization (Air Force) (Public Law 85-325) and Department of Defense Directive 5105.15, in February 1958. Its creation was directly attributed to the launching of Sputnik and to U.S. realization that the Soviet Union had developed the capacity to rapidly exploit military technology. Initial funding of ARPA was $520 million.
高等研究計画機関(ARPA)の創設は1958年にドワイト D. アイゼンハワー大統領によって承認された。 この機関は、技術と科学のフロンティアを拡大し、短期的な軍事的要件をはるかに超える研究開発プロジェクトを組織し、実行することを目的としてた。 創設に関連する2つの法令 the Supplemental Military Construction Authorization (Air Force) (Public Law 85-325) と Department of Defense Directive 5105.15 は1958年2月に告示された。 この機関の創設は直接的にはスプートニクの打ち上げに触発され、ソビエト連邦が軍事技術を速やかに転用可能な技術を開発したというアメリカの認識に起因した。 ARPAの当初予算は5億2000万ドルだった。
さすがにスプートニク・ショックの対策として大統領の肝いりで立ち上がった新たな機関ですので、 目的も予算も破格です。 ですが…
ARPA's first director, Roy Johnson, left a $160,000 management job at General Electric for an $18,000 job at ARPA. Herbert York from Lawrence Livermore National Laboratory was hired as his scientific assistant.
Johnson and York were both keen on space projects, but when NASA was established later in 1958 all space projects and most of ARPA's funding were transferred to it. Johnson resigned and ARPA was repurposed to do "high-risk", "high-gain", "far out" basic research, a posture that was enthusiastically embraced by the nation's scientists and research universities.
初代の局長である Roy Johnson は、ジェネラルエレクトリックでは 16 万ドルの管理職でしたが、ARPA では 18,000 ドルに減給された。 ローレンスリバモア国立研究所の Herbert York は彼の科学助手として雇われた。
Johnson と York はどちらも宇宙プロジェクトに熱心だったが、 1958年の後半に NASA が設立された時、すべての宇宙プロジェクトとARPAの資金の大部分は移された。 ジョンソンは辞任し、 ARPAは「ハイリスク」「ハイゲイン」「ファーアウト」の基礎研究を行うために転用され、その姿勢は国内の科学者や研究大学に熱心に受け入れられた。
創設の8ヶ月後には ARPA の活動は頓挫し、組織はバブルのように萎んでしまいました。 この8ヶ月間に一体何が起こったんでしょうか?
ロイ・ジョンソン: ARPAの初代局長
Wikipedia に記載されていたARPAのフロントマンの二人ですが、 ハーバート・ヨークについては Wikipedia 英語版にページがありました。
ヨークはマンハッタン計画に参加した物理学者で、その後の水爆開発にも参加していたようです。 ローレンスリバモア国立研究所を退職した 1958 年以降は、ARPA を含むさまざまな政府機関や大学でポジションを得ていたとのこと。
一方、問題なのはロイ・ジョンソンでして、GMの副社長を辞めて8ヶ月間 ARPA の初代局長を勤めた後の足取りは全く掴めませんでした。DARPAサイトの 歴代の局長の資料と タイムライン に顔写真が掲載されている事、それから Google Books に収蔵されている雑誌 "LIFE" に局長在任中に取材されたと思われる記事2本がなんとか見つかりました。
LIFE - Mar 17, 1958 - Outer Space: Let's get there, Outer Space: How to behave there books.google.co.jp
LIFE - Apr 7, 1958 - Liftoff into orbit for the U.S. space program (Explorer I) books.google.co.jp
ちなみにNASAのファンサイトの記事 "Life Magazine Space Related Articles" には雑誌 "LIFE" に掲載された宇宙関連記事がリストアップされています。 各時代の宇宙開発に関する話題が読み取れるので、今となっては非常に興味深い資料だと言えます。 forum.nasaspaceflight.com
結局 "Roy Johnson" と言うと 野球選手 が一番有名で「ARPA初代局長」の情報は皆無でした。
ARPA、最初の8ヶ月
一方、ハフナー本では、この8ヶ月間の顛末がかなり詳細に紹介されています。
All eyes were on ARPA when it opened its doors with a $520 million appropriation and a $2 billion budget plan. It was given direction over all U.S. space programs and all advanced strategic missile research. By 1959, a headquarters staff of about seventy people had been hired, a number that would remain fairly constant for years. These were mainly scientific project managers who analyzed and evaluated R&D proposals, supervising the work of hundreds of contractors.
ARPAが5億2000万ドルの予算と20億ドルの予算計画で門戸を開いたとき、 すべての目がARPAに注目していました。 それが、米国のすべての宇宙計画および先進的な戦略的ミサイル研究に関する方向性を示す出来事でした。 1959年までに約70人の本部スタッフが雇われました。 これらは主に科学的なプロジェクトマネージャで、R&Dの提案を分析・評価や何百もの請負業者の作業を監督しました。
しかし1958年当時に「5億2000万ドルの初期予算と20億ドルの年間予算」というのは法外過ぎて想像も付きませんが、 まずは5億2000万ドルの初期予算を使って9月までに20億ドル分の年間計画を策定することがARPAの最初のミッションだったようです。
ARPA局長のジョンソンは国防長官マッケロイの個人的なツテで採用されたようです。 前述のとおり、年収が10分の1になるにも関わらず局長の仕事を引き受けた訳ですから、 ジョンソンがこの仕事に並々ならぬ意欲を持っていたのは明らかでしょう。 しかしながら、彼は幾つかの致命的な誤解をしていたようです。
Not surprisingly, Johnson approached America's R&D agenda as a management problem. Management skills were his strong suit. His job, as he saw it, was to exhort people to do anything necessary to get the edge on the Soviets. He argued often and vigorously with rooms full of generals and admirals, and aggressively took on the Air Force. It soon became apparent that Johnson was a serious and vociferous advocate of a strong military presence in outer space.
驚くことではないが、ジョンソンはアメリカの研究開発アジェンダに経営問題として接近した。 管理スキルは彼の強みだった。 彼の理解では、彼の仕事はソビエトに対する優位性を得るために必要なことを何でもするように促すことだった。 彼は将軍や提督でいっぱいの部屋で頻繁にそして激しく議論し、そして積極的に空軍を引き入れた。 ジョンソンが宇宙空間で強い軍事的存在を真剣かつ声高に提唱する者であることはすぐに明らかになった。
つまり彼の誤解は、ARPAの目標を(彼個人の信念に基づいて)「ソ連に対する軍事的な優位の獲得」と思い込んでいた事、 さらに、そのための提案を陸海空の3軍に募り、各提案の間を調停することが自分の仕事だと理解していた事、 そして最もマズかったのは、提案を求めた3軍の要員が科学的素養に欠けていて実現可能な提案を策定する能力を持っていないことを理解していなかった事でした。 結果的にジョンソンは自ら泥舟の船頭を買って出たような存在だったように見えます *13。 ですから、アイゼンハワー大統領の周辺からは…
But of course Killian and other scientists around Eisenhower had wanted someone well versed in scientific and technological issues running ARPA. Johnson had been instructed to hire a military flag officer as his deputy, and to select a chief scientist to round out his leadership team. The scientific post had almost gone to Wernher von Braun, until he insisted on bringing his whole team of a dozen associates with him to the Pentagon. So Herbert York, whom Killian had been keen on, was given the job and moved to ARPA from the Lawrence Livermore Laboratory.
しかし、もちろん、キリアンを始めとするアイゼンハワー周辺の科学者たちは、ARPAを実行している科学的および技術的問題に精通した人を望んでいた。 ジョンソンは彼の代理として軍の将官を雇うことや、彼が率いるチームを完成させるために主任科学者を選ぶことも指示されていた。 彼が彼と一緒に仲間の数十人のチーム全体をペンタゴンに連れて行くことを主張するまで、科学的ポストはほとんどヴェルナー・フォン・ブラウンが担った。 その後、キリアンが熱望していたハーバート・ヨークがローレンスリバモア研究所からARPAに移籍し、その役割に着いた。
…と言うリアクションが出るのは当然でしょう。 ここで言う「キリアンを始めとするアイゼンハワー周辺の科学者」とは 大統領科学技術諮問委員会(PSAC) のようです*14。 PSACから代理となる将官や主任研究員の雇用を求められていたことから察するに、 ジョンソンはARPA局長として軍事・科学技術の両面で専門知識が不足していると見なされていたようです。 そして、ジョンソンもまた委員会を「煩わしい連中」と見えていて、 ARPAの議論から遠ざけたいと考えていた…ARPAとPSAC(NASA)の溝はどんどん広がっていったことが想像できます。
これが我々が何となく表面的に理解してきた ARPA vs NASA の対立の構図の真相なのかも知れません。 この対立は本ページで紹介してきたアイゼンハワー政権内部の葛藤の縮図のようにも思えます。 そして、最終的に大統領がどちらを支持するか?は明らかだったのですが、 ジョンソンは自らが信じる道を突き進みました。
両者の確執は改善されないまま、1958年夏のNASAの創設法案の審議を迎えたようです。
ARPA's success hinged on Johnson's extremely vocal posturing about America's role in outer space and his simplistic view of Soviet-American tensions. He mistakenly defined ARPA's mission almost entirely in military terms, outlining the kind of space projects he envisioned: global surveillance satellites, space defense interceptor vehicles, strategic orbital weapon systems, stationary communications satellites, manned space stations, and a moon base.
ARPAの成否は、宇宙におけるアメリカの役割とソビエトとアメリカの間の緊張に対する単純化された見解を極めて声高に主張するジョンソンの態度にかかっていた。 彼はARPAの任務を軍事的には完全に誤って定義し、 地球規模の監視衛星、宇宙防衛迎撃機、戦略的軌道兵器システム、静止通信衛星、有人宇宙ステーション、月面基地など 彼が想像していた宇宙プロジェクトの種類の概要を述べた。
このジョンソンの構想を見て、20年後の1980年代に実施された Strategic Defense Initiative(SDI) (戦略防衛構想) を思い出す方々も多いかと思います。別名「スターウォーズ計画」と呼ばれた、 米国防総省のこの計画は文字通り映画『スターウォーズ』をリアルで再現する試みだと理解されてました。 今日、SDIに対して「これらの新世代の兵器においても、未だ実戦に耐えるレベルには程遠い」とする評価が定着しているように思います。 ジョンソンのプランが如何に荒唐無稽であったか?が時代を経て証明された格好です。
Eisenhower and his civilian scientists had moved ahead with the rest of their agenda, and by the late summer of 1958 the National Aeronautics and Space Administration had been enacted into law. Almost overnight, while Johnson drummed for a military presence in space, the space projects and missile programs were stripped away from ARPA and transferred over to NASA or back to the services, leaving ARPA's budget whittled to a measly $150 million. ARPA's portfolio was gutted, its staff left practically without any role. Aviation Week called the young agency "a dead cat hanging in the fruit closet."
アイゼンハワーと彼の民間科学者たちはその他の議題を進めて前進し、 1958年の夏の終わりまでに国家航空宇宙局(NASA)は法律に制定された。 ジョンソン氏が宇宙での軍事的存在を強く主張したのに対し、 ほぼ一晩で、宇宙開発プロジェクトとミサイル計画は ARPA から取り除かれて、 NASAへの移管、あるいは軍隊に戻され、ARPAの予算は約1億5000万ドルにまで減った。 ARPAのポートフォリオは全滅し、そのスタッフは実質的に何の役割もなく去った。
皆さんもよくご存知の通り、結局、ARPA vs NASA は NASA に軍配が上がる結果となりました。 この予算削減は ARPA に事実上の消滅を言い渡す内容でした。ジョンソンには気の毒なことです。 が、その後の歴史を知る(僕を含む)世界中の情報系エンジニアや研究者にとっては これ以上にない「価値ある敗北」だったと思えてなりません。
ARPA の再建
National Aeronautics and Space Administration(NASA)の誕生について Wikipedia には次の記載があります。
1958年7月29日、国家航空宇宙法 (National Aeronautics and Space Act) に基づき、 先行の国家航空宇宙諮問委員会 (National Advisory Committee for Aeronautics, NACA) を発展的に解消する形で NASA が設立された。 正式に活動を始めたのは同年10月1日のことであった。
一方、ARPAはと言うと…ハフナー本に以下の記載があります。
Johnson resigned. Before leaving, however, he commissioned his staff to draft a paper weighing four alternatives: abolishing ARPA, expanding it, making no changes, or redefining its mission. His analysts threw themselves into building a case for the fourth alternative, and their tenacity alone saved the agency from sure oblivion. They fleshed out a set of goals to distance ARPA from the Pentagon by shifting the agency's focus to the nation's long-term "basic research" efforts. The services had never been interested in abstract research projects; their world was driven by near-term goals and cozy relationships with industrial contractors. The staff of ARPA saw an opportunity to redefine the agency as a group that would take on the really advanced "far-out" research.
Most important of all, ARPA staffers recognized the agency's biggest mistake yet: It had not been tapping the universities where much of the best scientific work was being done. The scientific community, predictably, rallied to the call for a reinvention of ARPA as a "high-risk, high-gain" research sponsor -- the kind of R&D shop they had dreamed of all along. Their dream was realized; ARPA was given its new mission.
ジョンソンは辞任した。 しかし、辞任する前に、ARPAの廃止、ARPAの拡張、現状維持、その使命を再定義、の4つの選択肢を検討し報告書を作成するようスタッフに命じた。 アナリストたちは4番目の選択肢のケースを構築することに自らの運命を掛け、そして彼らのその粘り強さが組織の完全な消滅から救いました。 彼らは、機関の焦点を国の長期的な「基礎研究」への努力に移すことによって、ARPAをペンタゴンから遠ざけるための一連の目標を実現しました。 これまで軍が抽象的な研究プロジェクトに興味を持ったことがありませんでした。 彼らの世界は近い将来の目標と民間の請負業者との居心地の良い関係によって推進されました。 ARPAのスタッフは、機関を本当に先進的な「現実離れした」研究を引き受けるグループとして再定義する機会を得ました。
何よりも最も重要なことは、ARPAの職員が機関の最大の過ち 「最も優れた科学的研究の多くが行われていた大学に(軍は)注目していない」 という事実を認識していたということです。 予想通り「高リスク、高利益」の研究スポンサーとしてのARPAの改革の呼びかけに、 科学界は彼らがずっと夢見ていた研究開発の場を期待して集まりました。 ARPAに新しい任務が与えられました。
今日、我々がよく知る ARPA の基軸はこの時に決まったようです。 個人的に大昔に漠然と考えた「こんな夢物語に何故、米軍は大金を積み上げて支援したのだろうか?」に対する明確な答えでもあります。 ちょっと気取ってに表現すると、世間の厳しい目から「現実離れした」夢を追う研究者を守る盾として、 ARPAはそれまでとは全く別の対象をディフェンスする機関になりました *15。
大統領としてのアイゼンハワー
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。 きっと、ブログ最大の長編記事になってると思いますが…
結果的にこの序章(中編)の主役になったアイゼンハワー大統領と彼の政権について最後に書いて、このページを締めたいと思います。 大統領としてのアイゼンハワーの功罪については Wikipedia の次のページに書かれています。
正直、僕もこの記事を書くまで「軍出身者」という色眼鏡で見ていたのですが、 予算削減、組織再編を断行して米軍の近代化をやってのけたことは偉大な功績だと思いますし、 もし彼が3期目を務められたのだとしたらキューバ危機は起きなかったのではないかとも思います。
前編では ヴァネヴァー・ブッシュ はトルーマン大統領への報告書 『科学 ― その果てしなきフロンティア』 で「積極的に科学技術を導入した第2次世界大戦での成功を強調し、軍産学の連携の継続を主張した」と紹介しましたが、 本当の意味で科学技術の進歩を後押しし、よりバランスの取れた(行き過ぎのない)軍事応用ができる体制を作ったのは アイゼンハワーだったように思います。またスプートニク・ショックで頭に血がのぼったアメリカの世論に屈することなく 自らの現実的な政策を押し通した事も今となっては評価するべきでしょう *16。 当時はいつ Hot War に変わってもおかしくない状況だったわけですから。
アイゼンハワーは最後まで偉大な大統領でした。 彼の退任演説 もまた後世に残る非常に有名な演説です。
この映像は日本語字幕がありますから字幕をオンにしてご覧ください。
この演説の中で登場するのが有名な 軍産複合体 の概念です。
彼が大統領在任中に戦ってきた相手の正体に言及したとも僕は感じるのですが、 演説では「それは撲滅できるようなものではないし、そうすべきでもない」必要悪であり、 賢明な市民は「それが極端に逸脱するような状況を許すべきではない」と語っているように僕は理解してます。
演説では「バランス」という言葉が何度も登場します。 何かと騒々しい今日の国際関係の現状を考えると、再び思い出すべき言葉なのかもしれません。
次は序章(後編)として「輝ける(でも影も一段と深くなった)60年代」について紹介したいと思います。 当時は科学者の「現実離れした」夢のひとつだった人工知能研究が何故現実のものになったのか? との質問の答えを見つけたいと考えています。
以上
太平洋戦争の終結に伴い、朝鮮半島の統治は日本から連合国軍へと移行し、 北緯38度線を境界として南北に分断統治されたこと、 さらに1948年に各々が「大韓民国(韓国)」と「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」として独立した事はよく知られている通りです。
朝鮮戦争は1950年6月に突如、北朝鮮が韓国へ南侵を開始したことにより始まります。 この南侵は金日成が中国の毛沢東とソ連のスターリンの同意と支援を受けて始めたとされてきましたが、 近年の調査で金日成がスターリンの甘言に乗って始めた戦争であることがわかってきて来ます。 スターリンの狙いは極東での武力紛争にアメリカを引きづり込むことによって、 アメリカのヨーロッパ正面での武力を削ぐことにあったようです。 これは 1948年〜1949年にソ連が行った ベルリン封鎖 がアメリカとイギリスの「ベルリン大空輸」(Berlin Airlift) により頓挫した事が遠因だと考えられます。
また、大統領のトルーマンと全くソリが合わず、 事あるごとにぶつかっていたGHQ最高司令官のマッカーサーは 早々に退役し自らが大統領戦に打って出ることを考えていたそうですが、 トルーマンが2期目を決めた1948年の大統領選へのマッカーサーの出馬を阻んだのも朝鮮戦争でした。 国連軍の最高司令官に就任したマッカーサーは極東に釘付けになり身動きが取れなくなったからです。
国連軍は初期の劣勢を挽回し、北緯38度線を超えて北進を続けましたが、 それを警戒した中国が戦争介入を決定し、戦争は1951年初頭には膠着状態に陥ってしまいました。 停戦による状況打開を考え始めたトルーマンに対し、徹底交戦を主張し、 原子爆弾の使用さえ提言したマッカーサーは、 1951年4月にGHQ最高司令官を含む、軍の全ての地位から解任されました。 彼の解任は後の彼の大統領選を暗示するような出来事でした。
*2:この手の輩には、頭脳明晰で弁の立つオバマよりも、 何をしでかすかわからないトランプの方が有効である事を、 私たちは今、確認しつつありますよね? まさしく「毒を以て毒を制す」かと。
*3:ゼネラル・エレクトリック(GE)にも同姓同名(Charles H. Wilson)の経営者がいたので「モーター・チャーリー」に対して GMの Charles E. Wilson は「エンジン・チャーリー」の愛称で呼ばれていたそうです。
*7:頼りのWikipediaにも"This section relies largely or entirely on a single source."「このセクションは、大部分または完全に単一の情報源に依存しています」とあり、その記述内容の真偽は微妙な感じでした。
*8:彼は外交政策部次長からの解任の際にマスコミから頻繁に取り上げられたので、ご記憶の方も多いと思います。
*9:これ、Google翻訳では訳せなかったのですが「オハイオ州シンシナチからやって来た石鹸屋のマック」って事で良いのでしょうかね? しかし「エンジン・チャーリー」だとか「モーター・チャーリー」だとか、著名な大企業の経営者にこの手の渾名をつけるのは当時の習慣なんでしょうか? まるで西部劇みたいなネーミングですよね?
*10:当時、彼はMITの学長でしたが、スプートニク2号の打ち上げ直後に引っこ抜かれ、大統領補佐官に就任し、 大統領直属科学諮問委員会(PSAC: President's Science Advisory Committee) の議長も務めました。彼の業績は NASA が中心なので詳細は後編にて。
*11:どの時代のどの国でもよくある事のように思いますが…
*12:この当時の世論は「スプートニク・ショック」の影響から「本当に軍の予算を削って大丈夫なのか?」との軍拡支持の論調が支配的でした。 軍の制服組もこの世論の支持を背景に強気の態度を取っていました。(リベラルなはずの)野党の民主党も軍縮反対の論調を取っていました。 例えば上院議員のジョン・F・ケネディは「ミサイル・ギャップ」を盾に政権に厳しく迫ったと言います。 アイゼンハワー政権は世論の圧力を跳ね返して軍縮の基本方針を堅持することに苦労していました。
*13:今日であれば、失敗したベンチャー企業の内情と共通しているかもしれませんね。
*14:この委員会はARPAよりもNASAに関わりが深いので、詳細は後編で…
*15:この時、ARPAの存続を賭けて粘り強く交渉を続けたのは一体誰だったのか? が僕は知りたくなってますが、この人は多分見つけられないのでしょうねぇ。
*16:アイゼンハワーに対する評価は賛否さまざまだと思います。 在任中は後任のケネディほどは華々しくは無かったように思いますし、 退任直後は「結局、何をやってくれたの?」といったイジワルな評価もあったそうです。 が、その後の歴史も加味するできる今日に改めて考える、 第2次世界大戦後のアメリカの歴代政権の中で最も先見性のあった政権だったように思います。 アイゼンハワー政権下でいろいろ避難を受けながらも敢えて米軍再編と予算圧縮を実行したのは正しかった事がその後の歴史が証明されているからです。 というのも、アメリカと対峙した当時のソ連はその後の経済問題が理由により80年代に国家が崩壊したからです。80年代のソ連の(最後の)指導者 ミハイル・ゴルバチョフ もまたアイゼンハワーやウィルソンと同じ危惧を持っていたと思いますが、改革を行うには「時、既に遅し」の状態になっていたということが今日ではわかっています。 50年代であれば主に軍を対象に絞れば達成できた事でも、80年代まで放置し軍事の負担が社会そのものが疲弊し始めている状況では手のつけようが無くなってしまう。 結局、国同士の争い長期で見れは「どちらの国民が我慢強いか?」という我慢比べになってしまうという事でしょうか?
*17:ちなみに、演説全文の翻訳はインターネットでも複数出回っています。 このページを書くために僕が読んだのは次の2編です。
この政治家の演説の翻訳には訳者の政治や軍事に対する信条がどうしても反映されてしまいますので、 その点に留意して複数当たることをお勧めします