サイエンス・フィクションの起源
藤田昭人
SFをテーマにした「序章 後編その2」の本稿では、さらに時代を遡ってみます。 というのも月への旅行を扱ったSFと言えば、 ジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』も語るべきですよね?前回紹介した ムーン・ブック の冒頭にも登場するこの小説。 実際に月面探査を行ったアポロ計画を正確に予言していたとも言われていますが、実は発表されたのは19世紀なんです。 なので前回紹介したスペース・オペラの作品群とは同列に扱えません。 科学技術がまだ未発達だった当時、 この小説のリアリティがどのようにして生まれたのか? を取っ掛かりに19世紀のSFを追っかけてみたいと思います。
サイエンス・フィクションの起源
SFは19世紀後期のヨーロッパで成立したと言われています。
草創期の代表的な作家にはフランスの
ジュール・ヴェルヌ
(Jules Verne, 1828〜1905)
やイギリスの
ハーバート・ジョージ・ウェルズ
(Herbert George Wells, 1866〜1946)
などがいます。ヴェルヌの
"Journey to the Center of the Earth"
「地底旅行」(1864)、
"From the Earth to the Moon"
「月世界旅行」(1865)、
"Twenty Thousand Leagues Under the Sea"
「海底二万里」(1869)や、ウェルズの
"The Time Machine"
「タイムマシン」(1895)、
"The War of the Worlds"
「宇宙戦争」(1898)
と言えば、
シャーロック・ホームズや
アルセーヌ・ルパン
などと共に、小学生の頃、誰もが流行病のようにハマるSFの古典です。
皆さんにもそれぞれ思い出があるのではありませんか?
今日ではヴェルヌやウェルズがSF小説の創始者であるように理解されていますが、 彼らが活躍する以前にSFの萌芽を宿した小説は存在しました。例えば、 メアリー・シェリー (Mary Shelley, 1797〜1851)の "Frankenstein"「フランケンシュタイン」(1818) は「マッド・サイエンティストが作った人造人間」と言うSF特有の道具立てを用いているにも関わらず、 今ではドラキュラや狼男と同列のモンスター小説と見なされていますよね? また "The Black Cat" 「黒猫」(1843) などの怪奇小説で名高い エドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe, 1809〜1849) は「小説に科学的事実を取り入れることによって、物語に真実味を持たせる技法」を示すSF小説を発表しています。 実はヴェルヌはポーの大ファンで、ポーが編み出したこの技法を取り入れることにより自らの作風を確立しました *1。 年の差がわずか20歳しかないポーとヴェルヌですが、皮肉なことに小説家として対照的な人生を送りました。 それはポーが亡くなった1849年からヴェルヌが処女作を発表する1863年の間にヨーロッパ社会が大きく変革されたからだと僕は想像しています。
当時の先進国だったイギリスやフランスは、18世紀末からの産業革命を経て、概ねこの頃に社会の工業化が完了します。 その象徴的な出来事が1851年の ロンドン万国博覧会 (Great Exhibition)から始まる万国博覧会のブームです。 この種の博覧会は、出展者にとって自ら開発した最先端技術を披露する競技会のような性質を持っていました。 各国も自国の科学技術を飛躍的に向上させる機会として出展を奨励しました。 そして、何よりも博覧会を見物にくる一般大衆にとっては、それまで目にする事ができなかった最先端技術を直近で目にする機会となりました。 必然的に一般大衆の科学技術に対する知識もまた飛躍的に向上する事になりました。
このようにして、一般大衆にSFが受け入れられる素地が急速に形成されていったと想像しています。1863年に発表されたヴェルヌの処女作 "Five Weeks in a Balloon"「気球に乗って五週間」 は大評判となり、ヴェルヌは一躍、流行作家の仲間入りを果たしました。その後、シャーロック・ホームズ・シリーズの アーサー・コナン・ドイル (Arthur Conan Doyle, 1859〜1930) やウェルズなどの科学至上主義の作家が次々と文壇に登場します。
サイエンス・フィクションの作法
ヴェルヌのSFのそれまでにはない新しさとは、実際の科学技術の進歩との並進性にありました。 ヴェルヌはポーの技法を忠実に守り、作品に登場する架空のマシンのディテールやそれが動いた時の驚くべき光景を丁寧に描写して、 「本当に実現できるかもしれない」感を巧みに演出しました。先入観のない子供たちは 「僕らが大人になる頃にはこんなメカができてるかも?」と夢見たり、 「僕がこれを作ってやる」とか「僕はこれに乗って冒険をする」といった野心を抱いたり…ムーンブックでは100年後のアポロ11号がミッションを終える際に 船長のアームストロングが全世界に向けて発した最後のメッセージを紹介しています。
こんばんは、こちらはアポロ11号の船長です。100年前、ジュール・ヴェルヌが月への旅を描いた1冊の本を発表しました。 その本に出てくるコロンビア号は、フロリダを出発し、月への旅を終えて無事に太平洋に着水しました。 現代のコロンビア号が地球とのランデブーを終えて同じ太平洋に戻ろうとしている今、私たち乗組員の思いを皆さんと共有する良い機会だと思います…
ヴェルヌが「月世界旅行」を執筆していた時、やがて人類にこんな瞬間が訪れることを想像していたんでしょうかね? アームストロングのスピーチは、ポーやヴェルヌが試みた文学表現の革新が、当人たちの目論見をはるかに超えて、 後進たちが共有する科学技術のビジョン形成に直接寄与したことを証明したと言えるでしょう。
一方、ウェルズのアプローチはヴェルヌのそれとはかなり異なるものでした。 1933年に出版された彼のSF作品集 "The Scientific Romances of H. G. Wells" *2の序文においてウェルズ自身が次のように解説しています。
As soon as the magic trick has been done the whole business of the fantasy writer is to keep everything else human and real. Touches of prosaic detail are imperative and a rigorous adherence to the hypothesis. Any extra fantasy outside the cardinal assumption immediately gives a touch of irresponsible silliness to the invention.
(仮説となる)魔法のトリックが完成すると直ちに、ファンタジー作家が取り組まなければならない仕事はその他のすべてを人間的でリアルに保つことだ。平凡な細部に触れることは必須であり、仮説に厳密に従うことである。基本的な仮説以外にファンタジーを追加すると、元の仮説に無責任な馬鹿げた印象を与えることに直結する。
すなわち、SF作品では "the plausible impossible"(もっともらしい不可能)を1つだけ用意し、 ストーリーを可能な限り読者が信頼できるものにするために努力すれば、 読者には "suspension of disbelief"(不信の一時的停止)が起こり、その不可能を実際に起こりうることとして受け入れることができる、 例えば「タイムマシン」はウェルズが発案した実現不可能なマシンですが、 それを「運転者が意図的かつ選択的に時間的に前方または後方に移動できる車両」をイメージすることで、 小説にリアリティを与えることができると彼は主張しています。
SFファンの世界では "Wells's Law"(ウェルズの法則)と呼ばれるこの作法は、ポーとヴェルヌの方法よりずーっと一般性があったように思います。 と言うのも、最初に「もっともらしい不可能」を1つだけ思いつけさえすれば、あとは普通の小説と同様に丁寧に設定を描写していけば良いわけですから。 その点についてウェルズも次のように白状しています。
All these three books are consciously grim, under the influence of Swift’s tradition. But I am neither a pessimist nor an optimist at bottom. This is an entirely indifferent world in which wilful wisdom seems to have a perfectly fair chance. It is after all rather cheap to get force of presentation by loading the scales on the sinister side. Horror stories are easier to write than gay and exalting stories.
これら3冊の本(『タイムマシン』『モロー博士の島』『宇宙戦争』)はすべて、スウィフトの伝統の影響を受けて意識的に残酷に仕立てた。しかし私は悲観主義者でも楽観主義者でもない。これは全く関係のない世界であり、意図的な知恵にはまったく公平な機会があるように思われる。邪悪な側に体重を載せて、力を発揮してもらうのは、やはり狡猾だ。ホラー小説は快活なあるいは高尚な物語よりも書きやすい。
つまり、この法則はどんなストーリーにも適用できるそうなんですが、ウェルズはイギリス人らしく "Gulliver's Travels"「ガリヴァー旅行記」(1726)の作者 「ジョナサン・スウィフト」(Jonathan Swift, 1667〜1745) の作風、すなわち「寓話の形を借りた社会風刺」の作品として初期の3作を書き下ろしたようです。 このウェルズの「どんなストーリーにも適用できる」SF作法に僕が妙に納得するのは、 藤子不二雄の「ドラえもん」を知っているからでしょう。 ドラえもんは「ウェルズの法則」に厳格に従いながら子供向けのコメディとして大成功を納めている事実には皆さんも納得していただけるのでは?
ヴェルヌのユートピア的世界観とウェルズのディストピア的世界観の両方が提示されたことにより、 新しい文学の方法であるSF小説の表現の幅広さが実証されることになったのだと思います。 ですが、その後のSF作品にはどちらかというとウェルズ的作品が多いのも、 ウェルズが言うように「そのほうが書くのが楽」と言う作家側の身も蓋もない都合であることにも妙に合点してしまうのです *3。
では、ヴェルヌ的アプローチで人工知能を描いたSF小説はないのか?
次回はそのあたりを紹介します。
序章 後編その3に続く
*1:小説 "The Narrative of Arthur Gordon Pym of Nantucket" 「ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語」(1838) は短編小説の作家として知られるエドガー・アラン・ポーが残した唯一の(完結した)長編小説です。19世紀に ジョン・クリーブス・シムズ(John Cleves Symmes Jr., 1780〜1829)が唱えた 「地球空洞説」(Hollow Earth Theory) に言及した冒険小説です。
この小説に強い影響を受けたジュール・ヴェルヌはエッセイ "Edgar Poe et ses œuvres" ("Edgar Allan Poe and his Works”, 1864) を書き、唐突に終わるこの小説の続編である "An Antarctic Mystery" 「氷のスフィンクス」(1897) も発表しています。ヴェルヌのポーへの傾倒振りが伺えます。
今日「地球空洞説」は疑似科学と見なされて議論の対象になる事は滅多にありません。 が、SFの世界では今なお定番のプロットの1つとして扱われているのは、偉大な先人であるポーやヴェルヌへの敬意なのかもしれません。
*2:"The Scientific Romances of H. G. Wells"(1933)はヴィクター・ゴランツ(Victor Gollancz, 1893〜1967)が編集・出版したウェルズの作品集です。
同書には次の作品が収められていました。
- "The Time Machine" 「タイムマシン」(1895)
- "The Island of Doctor Moreau"「モロー博士の島」(1896)
- "The Invisible Man"「透明人間」(1897)
- "The War of the Worlds" 「宇宙戦争」(1898)
- "When the Sleeper Wakes"(1899)
- "The First Men in the Moon" 「月世界最初の人間」(1901)
- "The Food of the Gods"(1904)
- "In the Days of the Comet"(1906)
- "Men Like Gods"(1923)
作品に邦題が無いものは日本語訳は出版されていない模様です。
ちなみにタイトルにある"Scientific romance" 「科学ロマンス」 とは英語圏で呼称されている初期のSF小説に対する別称のようです。ヴェルヌ作品も対象らしいのですが、 それはあくまでも英語圏での話で、ヴェルヌの母国語であるフランス語圏では対応する別称は無いように見えます。
同書が出版される際、ウェルズは序章を書き下ろしたようですが、 その全文が次のサイトで閲覧できます。
この序章で特筆すべきは、ウェルズ自身がヴェルヌ作品に対する評価を次のように言及していることではないでしょうか?
As a matter of fact there is no literary resemblance whatever between the anticipatory invention of the great Frenchman and these fantasies. His work dealt almost always with actual possibilities of invention and discovery, and he made some remarkable forecasts. The interest he invoked was a practical one; he wrote and believed and told that this or that thing could be done, which was not at that time done. He helped his reader to imagine it done and to realise what fun, excitement or mischief would ensue. Many of his inventions have “come true.” But these stories of mine collected here do not pretend to deal with possible things; they are exercises of the imagination in a quite different field.
実際のところ、偉大なフランス人の予言的発明と(私の)数々の空想との間には文学的類似性は全くない。彼の研究はほとんど常に発明と発見の実際の可能性を扱っており、いくつかの注目すべき予測を行った。彼が引き合いに出した関心は現実的なものだった。彼はそれは当時はできないことを、書き下ろして、信じさせ、こうなるだろう、ああなるだろうなどと言った。彼は読者がそれが可能であることを想像し、どんな楽しいこと、興奮したこと、どんな困難が起こるかを理解するのを助けた。彼の発明の多くには「実現」がある。しかし、私が集めた物語には可能性があることを扱うふりをしていない。全く違う分野での想像力の行使である。
ウェルズは、ヴェルヌの仕事について今日の理工学研究者が行う思考実験のようなイメージを抱いていたように聞こえます。
*3:そう言えば、手塚治虫の作品に悲劇が多いのも「そのほうが読者の関心を引き込むことができる」との手塚自身の文学的計算によるものだとの発言も思い出します。